彼杵村(読み)そのきむら

日本歴史地名大系 「彼杵村」の解説

彼杵村
そのきむら

[現在地名]東彼杵町小音琴郷こねごとごう大音琴郷おおねごとごう口木田郷くちきだごう蔵本郷くらもとごう彼杵宿郷そのぎしゆくごう三根郷みねごう川内郷こうちごう法音寺郷ほうおんじごう菅無田郷すがむたごう坂本郷さかもとごう中尾郷なかおごう川棚かわたな町小音琴郷

現町域の北部に位置し、彼杵そのぎ川の流域とその北側に立地する。中世は彼杵そのき庄のうち。一五九二年(文禄元年)から一六〇六年(慶長一一年)までイエズス会のレジデンシアがこおり(現大村市)・彼杵に置かれ、パードレ一人・イルマン一人が駐在していた(シュッテ「日本歴史史料集」I)。一五九三年フロイスは当時のソノキSonoquiの村について、まだ多少の米の蓄えがあった頃、一年に二度も火災となる事態が起きたが、ここ二ヵ年は旱魃で収穫がきわめて悪いうえ、役人らによる抑圧・暴政などに喘いでいると伝えている(フロイス「日本史」)。一五九六年日本に寄航したガレオン船サン・フエリペの航海記録(長崎市史)には「キリシタンの国スミギ」とみえる。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛大村ロザリオ組中連判書付には「そのぎ村」のキリシタン「喜木津薩摩あんてれ」が署名している。また「かうち村」とあるのは当地の可能性があり、「田崎内膳りあん」がみえる。明暦三年(一六五七)郡崩れでは彼杵村のキリシタンのうち一人が吊し殺しに処された(大村見聞集)

江戸時代には長崎路(長崎街道)彼杵宿が置かれ、それを中心に彼杵町が形成され、大村湾に臨んで彼杵浦・音琴浦などがあった。慶長四年大村領の検地が行われ、慶長高帳では蔵入地のほか、知行高二四七石余の大村善次郎ら庶家一門二人をはじめ、大村給人四人・小姓衆八人・郡村給人三人・彼杵給人三〇人・波佐見給人一人が知行。慶長一〇年の大村領内高目録では「彼杵村」の高一千八五四石余で、田一三二町四反余・畠三五町五反余、物成一千二〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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