日本歴史地名大系 「得蔵保・得蔵庄」の解説
得蔵保・得蔵庄
とくくらほ・とくくらのしよう
- 石川県:金沢市
- 得蔵保・得蔵庄
現在の金沢市北西、
寛治三年一〇月二日の藤原家通書状案によれば醍醐寺は従来高羽・治田両庄(いずれも比定地不詳)を官省符庄として保有していた。しかし、両庄が衰微したため、当保がその代償となり、醍醐寺賢円が保司となって前年春以来開発に当たってきたものであった。なお高羽・治田両庄は延長八年(九三〇)三月二三日醍醐寺に寄進され、天暦七年(九五三)八月五日官省符庄となり、長和四年(一〇一五)一一月一〇日には不輸租田坪付が作成されたものの(文治二年四月八日醍醐寺宝蔵文書目録)、まもなく加賀国司によって収公されたらしい。
賢円は天仁三年(一一一〇)当庄領家に任じられ、同年六月三〇日の醍醐寺座主勝覚の下文によって賢円一門の庄務執行が認められた。在庁注文によると当庄は本田五〇町・不作田代五〇町で構成され、所当米は段別八斗、官物として段別三斗が寺納されていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報