日本歴史地名大系 「大野庄」の解説
大野庄
おおののしよう
- 石川県:金沢市
- 大野庄
金沢市北西部、犀川および大野川の河口部周辺を中心に、犀川下流域や同川支流である
長寛元年(一一六三)頃に原形が成立した「白山之記」に白山九所小神の一として佐那武社があげられ、「大野庄在之」との注記がある。嘉禎元年(一二三五)一一月、一国平均役として造白山料米(段別五升)が課せられた際、当庄の地頭代生西・代官行西・預所友基・惣公文成円らが課役を拒否したため、翌二年三月二日、白山三社(本宮・金剣宮・岩本宮)は神輿を進発させ、生西らの私宅に振据えた。同月一九日には彼らがまだ庄内にとどまっているとして、三社は神鉾を下し、彼らの寄宿所や庄内村々の番頭私宅まで破却している(白山宮荘厳講中記録)。鎌倉時代末期、当庄地頭職は北条得宗家が掌握、地頭代官は平左衛門入道―円心(長崎氏か)―長崎高資が勤め、在国代官として足立氏(十郎―三郎左衛門入道厳阿)が派遣されていた(貞和二年閏九月一九日「足利直義下知状案」天龍寺文書、以下断りのない限り同文書)。正中二年(一三二五)在国代官足立厳阿の検注による庄内村々の田数注文(二通、いずれも同年九月二四日付)が進上されている。この二通は、下地中分された当庄の領家分・地頭分がそれぞれ一通ずつにまとめられたものと推定される。領家分と考えられる藤江村等田数注文に藤江村・黒田村・赤土村(宮腰半分を含む)・吉藤新保・野老塚新保・秋近新保・才次郎(寸次郎)新保、
大野庄
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現松江市の西端、大野町・上大野町・
〔大野氏と庄園領主〕
嘉禄二年(一二二六)七月二三日の将軍藤原頼経袖判下文(三木家文書)で紀季成が大野庄地頭職に補任されている。大野・大垣系図(同文書)によると、季成の父季康は武者所の武士で、鳥羽院から大野庄を与えられて出雲に下向し、大野氏を称したという。おそらく平安末期頃に紀季康が庄園領主の命を受けて出雲に派遣され、その子季成の時(承久の乱後)に初めて地頭に補任されたのであろう。大野氏の居城は東に隣接する
大野庄
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古代の大野郷の地に成立した庄園で、庄域はおよそ現大野郡北西部の大野町・
大野庄
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大野庄
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現小倉南区西部にあった宇佐宮弥勒寺領庄園。小倉南区
大野庄
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興福寺常楽会料所である。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の宇陀郡に「大野庄三町 常楽会免田也」とある。その田畠の所在は「緑河・門田・沓掛・檜垣本・河原田・市本・間取・今井・倉尾・河外・逸迫・大野田」とある。荘号などからみると、大野庄の所在は現大字大野に比定される。同大字には小字カワラダ・マトリが現存する。また近世から明治初期にかけて山辺郡大野村(現室生村大字大野)の枝郷に
延久以後については、天承元年(一一三一)の伊賀国司庁宣案(東大寺文書)に「可令早停止伝法院領大野庄住人乱行事」として「彼庄住人等越往古之堺、国領之地竜口村発来、致乱行之由有其訴(下略)」とみえる。
大野庄
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大野庄
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- 愛知県:常滑市
- 大野庄
成立年代および伝領関係などは不詳。「尊卑分脈」の源満仲の後裔朝日頼清の項に「号大野判官代 八条院判官代」および「承久乱為京方被討、尾張国大野庄以下数ケ所本領収公之了」との記述があり、承久の乱には京方として一千余騎を率いて奮戦した(吾妻鏡、承久記)朝日頼清が本領とする所領であった。彼らは大野姓をも称した。頼清は八条院と主従関係を結び判官代に任ぜられており、彼の所領が八条院へ寄進されていたとも推定される。承久の乱後当庄は収公され、その後の経緯は不詳だが、乱後約七〇年を経て、大野の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報