御宿村(読み)みしゆくむら

日本歴史地名大系 「御宿村」の解説

御宿村
みしゆくむら

[現在地名]裾野市御宿

千福せんぷく村の北、南流する黄瀬きせ川の西岸に位置する。同川を挟んで東は深良ふから村など、西は佐野さの川を挟んで葛山かずらやま村などで、村域を南北に二分するような形で東から村が割込んでいる。当地は大森葛山氏の一族御宿氏の本貫地で、建久四年(一一九三)五月、源頼朝が富士藍沢あいざわ巻狩を行った際、葛山惟忠の子惟重の館が頼朝の宿となり、のちに惟重は御宿殿とよばれたとの伝承がある。御宿氏は戦国期に今川氏・武田氏などに仕え、一帯に勢力を有した。「妙法寺記」大永六年(一五二六)条によれば、同年七月晦日、なし平の合戦で「葛山・御宿殿」が討死している。天正八年(一五八〇)一二月一九日、武田勝頼は御宿綱貞が父友綱から相続した「御宿段銭共百二拾貫文」などの所領を安堵している(「武田勝頼判物」村松定孝氏所蔵文書)。同一七年一二月一四日付で、渡辺弥之助光の奉じる徳川家七ヵ条定書(湯山文書)が「ミしゆく組」宛に発給されており、複数村落の連合体である組郷(与郷)が形成されていたことが知られる。

御宿村
おんじゆくむら

[現在地名]御宿町久保くぼ須賀すかはま高山田たかやまだ新町しんまち六軒町ろつけんまち御宿台おんじゆくだい

現御宿町の南東部に位置し、網代あじろ(御宿浦)に臨む。御宿郷ともいった。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一千九八五石。慶長二年(一五九七)大多喜おおたき(現大多喜町)城主本多氏により領内検地が実施された。同年の御宿郷縄打帳写(御宿町史料)の一部が残り、かじやまい・坊まえ・おふ見の口などの地名がみえ、また屋敷帳は浜・須賀久保御領谷ごりようやつ(御霊谷)・高山田・西林寺さいりんじの六集落別に記され、屋敷数八六、うち主居七四・分居一二、ほかに寺堂一一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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