六軒町(読み)ろつけんまち

日本歴史地名大系 「六軒町」の解説

六軒町
ろつけんまち

[現在地名]敦賀市栄新さかえしん町・かなさき町・あけぼの

川向かわむこ六ヶ町の一。川向御所辻子かわむこごしよのずし町の南に位置し、西は天神社、東は天筒てづつ山西麓のしみず村。「六間町」とも記す。慶長一〇年(一六〇五)頃、遊女町上島寺かみしまてら町より丁持ちよもち町の枝町三ツ屋みつやおよび当町に移り(疋田記)、青楼が六軒あったため町名が生じたと伝える(敦賀志)

しん町・六軒町・三ツ屋・森屋敷もりやしきの川向花街四町で青楼二〇〇軒を数えたというが(同書)、当町は「遠目鏡」に轡屋(置屋)が七軒、上女郎二一人・下女郎三八人とみえ、「色道大鑑」に「敦賀の遊廓は六軒町といふ、挙屋の居る所をみつやといふ、傾国の遊料十六匁、次は十匁なり、端女は六匁宛」とある。


六軒町
ろつけんまち

[現在地名]御宿町六軒町

御宿村の東部に位置し、南は網代あじろ(御宿浦)に接する。明暦年間(一六五五―五八)頃、御宿村がはま須賀すか久保くぼ高山田たかやまだの四村に分村したが、同三年にこの四ヵ村から六人が出て隣村岩和田いわわだ村との境界地を開発、当町をつくったという(文化一二年「神明宮返答書」御宿町史料)。元和(一六一五―二四)以降の御宿浦の漁業の発達によって形成された漁業関係者の集落とみられ、江戸時代を通して前記四ヵ村の入会地であった。延宝五年(一六七七)の六軒町屋敷帳(同史料)では屋敷数七一に急増、関西漁民が鰯漁に渡来したためと考えられる。元禄二年(一六八九)の御宿浦浦方割合帳(鶴岡家文書)には「六軒町後五三二ノ分」として反別二町八反余(上分一〇〇間余×五〇間、下分一九〇間×一八間)とみえ、浜村など四ヵ村名主らとともに六軒町名主四郎左衛門が署名している。


六軒町
ろつけんまち

[現在地名]大分市金池町かないけまち五丁目

城下の南東にある。塩九升しよくじよう町から少し西に向かってから南下する日向道(臼杵・府内城路)が東に折れ、土手の外で南に折れてさらに西に折れる辺りに位置する。慶長府内絵図では道の東側に東新ひがししん町と記され、南北一四間半(史料ママ)、入一五間。北側で東方来迎らいこう寺への道が分岐する。正保府内城絵図には新町とあり、南北四三間。享和二年(一八〇二)の清水流規矩元法分間絵図(県立大分図書館蔵)にのみ一八間の片側町として町名がみえる。文久元年(一八六一)の府内城下絵図(同館蔵)では東新町と記され、南北一七間半、入一二間。


六軒町
ろつけんちよう

東山区団栗通大和大路西入

団栗辻子どんぐりのずしに南面。寛永一四年(一六三七)洛中洛外惣町数人家数改日記(「半日閑話」所引)に「建仁寺北門前六軒町」と出る。開町の際、人家六戸を数えるばかりであったという(坊目誌)。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「此団栗辻子北側上ル所、六軒町 此町行ぬけなし」とあるが、現状は井手いで町を経て東折し、大和やまと町へ至る小路がある。裏六軒町の称も通行していたようで、延宝二年(一六七四)四方洛外町続之町々小名之覚(荻野家文書)や正徳四年(一七一四)洛外町続町数小名家数改帳(同文書)などはその称を採る。


六軒町
ろつけんちよう

[現在地名]武生市国府こくふ一丁目・府中ふちゆう二丁目

北府きたご町より東へ折れた町で、府中館の北に位置する。町名は正徳元年(一七一一)府中惣絵図にみえ、安永三年(一七七四)の前田家文書に家数八〇とある(武生市史)


六軒町
ろつけんまち

[現在地名]川越市六軒町

松郷まつごうの地に成立した町人町中原なかはら町の西側の南北の通り、妙養寺門前みようようじもんぜん町の南に続く。「川越索麪」によれば、町の長さ二一七間。志義しぎ町の車屋の先祖榎本勘解由が町立てしたと伝え、当初六軒であったことからの町名という。


六軒町
ろつけんちよう

[現在地名]和歌山市六軒丁

西鍛冶屋にしかじや町東部北側の横町。東は鷺森専光寺門前さぎのもりせんこうじもんぜん、西は元博労もとばくろう町一丁目に続く。文政一三年(一八三〇)の丁名増改時略図では「此間三十三間余」とあり、小さな町であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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