御根小屋跡(読み)おねごやあと

日本歴史地名大系 「御根小屋跡」の解説

御根小屋跡
おねごやあと

[現在地名]高梁市内山下

臥牛がぎゆう山の南西麓にあった松山まつやま城主の居館で、江戸時代には御下屋敷・御殿・御城とも称した。

城主三村氏時代には後世の場所に御根小屋が置かれていたが、天正三年(一五七五)の備中兵乱で焼失したようである(中国兵乱記)。その後、松山城には毛利氏の城代が在城したが、御根小屋の復興はなされなかったものか、慶長五年(一六〇〇)一二月に備中国奉行として松山に入部した小堀新助(正次)頼久らいきゆう寺において政務を執っている(「頼久寺由来略記」頼久寺蔵)。御根小屋の再建が進められたのは新助の子作助(政一、遠州)が備中国奉行になってまもない同一一年から一五年頃にかけてであった。当時、御根小屋は「松山御下屋敷」とよばれており、同一三年六月の納米払帳断簡(岸本文書)に「八斗五升、松山御下屋敷御用こわ壱万六千五百枚之代」とあり、また同一五年二月九日の枌請取(同文書)に「御下屋敷やねのいた替之為御用」として「上のそき拾束半、但御屋敷書院のやねいた替のとき也、ほんの太き也、但はゝ弐寸五、六分、長さ弐尺三寸、四寸つゝ、此小数合五千七百枚也」「なミのそき六拾束、此小数合参万枚也」とあるところをみると、書院の屋根は柿葺であったようであるが、その規模などについては不明である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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