ウィリアム2世(読み)ウィリアムにせい(英語表記)William II

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウィリアム2世」の意味・わかりやすい解説

ウィリアム2世
ウィリアムにせい
William II

[生]1056頃
[没]1100.8.2. ハンプシャー,リンドハースト近郊
征服王ウィリアム1世の息子で,ノルマン朝第2代のイングランド王(在位 1087~1100),および事実上のノルマンディー公(ウィリアム3世。1096~1100)。別名 William Rufus(赤顔王),フランス語名 Guillaume Le Roux。イングランドとノルマンディーの政治的統合を維持したものの,その強権的な支配により残忍かつ腐敗した暴君と評された。
ウィリアム1世の三男としてかわいがられ,イングランドを父から譲り受けた。イングランド王位を継承後,兄のノルマンディー公ロベール2世を支持する貴族らの反対にあい,1088年には父王の異母兄弟にあたるバユのオド(ケント伯)を中心にイングランド東部で反乱が起こった。ウィリアムは減税と政治の効率化を公約し,イングランド本土住民らを味方につけ,これを鎮圧した。しかし約束を反故にしたため,1095年にはロバート・デ・モウブレー(→モウブレー家ノーサンバーランド伯)による反乱を招くことになった。ウィリアムは反乱の首謀者に厳しい処罰を科し,以来貴族たちの王権への挑戦はなくなった。また,ウィリアムは教会の権威失墜をはかるべく,カンタベリー大司教のアンセルムスに圧力をかけ,教会の領地を奪った。スコットランドにも出兵し,1091年にスコットランド王マルカム3世に支配権を認めさせた。マルカムは 1093年11月に蜂起したが,ノーサンバーランドのアニック付近で殺害された。さらに 1097年にはウェールズも征服した。
ウィリアムの最大の目的はロベールが統治するノルマンディーの支配だったが,1089~96年の 7年間にわたる戦争ののちロベールを従属させた。1096年にロベールが十字軍参加にあたり資金を借りるため領地を抵当に入れると,ウィリアムはただちにメーヌを所有した。1100年,イングランド南部ハンプシャーのニューフォレストで狩猟中,矢で背中を射抜かれ死亡。ポンテューのポアの領主ウォルター・ティレルによる暗殺とみられ,ウィリアムの弟ヘンリー(→ヘンリー1世)の命令を受けた可能性が高い。

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