平安後期の公卿(くぎょう)。宇治(うじ)左大臣、悪左府(あくさふ)などともいう。保安(ほうあん)元年5月、関白藤原忠実(ただざね)の第2子として生まれる。母は忠実の家司(けいし)藤原盛実(もりざね)の女(むすめ)で、いわば妾腹(しょうふく)の子である。1125年(天治2)異母兄の摂政忠通(せっしょうただみち)の子となり、30年(大治5)宮中に出仕して以来累進して、36年(保延2)には17歳で内大臣に上って世人を驚かせた。またそのころから異常な熱意を学問に注ぎ、「日本第一の大学生(だいがくしょう)、和漢の才に富む」(『愚管抄(ぐかんしょう)』)と評され、さらに政務にも励み、果断な実行力によって、政治の刷新と古儀の復興に実績をあげた。
父忠実は摂関家の勢威の回復を頼長に期待し、頼長が左大臣に進んだ翌年の1150年(久安6)、摂政を頼長に譲るよう忠通に要求したが、拒絶されたため忠通を義絶するに至った。頼長は忠通にかわって氏長者(うじのちょうじゃ)となり、さらに翌年正月には内覧(ないらん)の宣旨を受けて執政の権を握った。しかし55年(久寿2)近衛(このえ)天皇の死去を機として、鳥羽(とば)法皇の信任を失って失脚し、さらに後白河(ごしらかわ)天皇の践祚(せんそ)により皇子の践祚の望みを絶たれた崇徳(すとく)上皇と手を結び、56年(保元1)7月法皇の没後まもなく兵をあげたが、あえなく敗死した(保元(ほうげん)の乱)。ときに37歳。のち朝廷は、その霊を慰め鎮めるため粟田宮(あわたのみや)を建て、崇徳上皇とともに祀(まつ)った。その日記『台記(たいき)』は、生彩に富んだ興味ある記述によって名高い。
[橋本義彦]
『橋本義彦著『藤原頼長』(1964・吉川弘文館)』
平安後期の公卿。世に悪左府,宇治左大臣と称された。関白忠実の次男。母は忠実の家司藤原盛実の女で,いわば妾腹の子である。1130年(大治5)異母兄の摂政忠通の子として朝廷に出仕して以来,官位の昇進をかさね,36年(保延2)17歳で内大臣に昇って世人を驚かせた。またそのころから異常な熱意を学問にそそぎ,ことに儒教の経書の講究に励んで,〈日本第一の大学生(がくしよう),和漢の才に富む〉と評されるまでになった。一面,朝儀・公事にも精励し,ことに47年(久安3)左大臣源有仁の没後をうけて一上(いちのかみ)(太政官の首席)となるや,果断な実行力をもって,朝政の刷新と朝儀の復興に努めた。父忠実は忠通の男子がまだ幼弱なのをみて,頼長に期待をかけ,50年摂政を左大臣の頼長に譲るよう忠通に勧告したが,拒絶されたため,忠通を義絶し,頼長を氏長者(うじのちようじや)にした。頼長はさらに内覧の宣旨をこうむり,同じく内覧・左大臣であった道長を範として摂関家の権威の回復を目ざした。しかし55年(久寿2)近衛天皇の死去を機として,鳥羽法皇の信任を失い,さらに後白河天皇の践祚(せんそ)により皇子の践祚の望みを断たれた崇徳上皇と手を結び,56年法皇の没後間もなく兵を挙げたが,敗れて南都に逃れ,戦場でうけた重傷のため命を落とした。その日記《台記》は,生彩に富んだ公家日記として名高い。
→保元の乱
執筆者:橋本 義彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(上杉和彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1120.5.-~56.7.14
宇治左大臣とも。平安後期の公卿。関白忠実の次男。母は藤原盛実の女。23歳年長の異母兄忠通の子となるが,もっぱら実父忠実の後援で昇進を重ね,忠通と対立した。権中納言・権大納言をへて,1136年(保延2)内大臣,49年(久安5)左大臣。50年には忠通にかわって氏長者となり,翌年内覧の宣旨をこうむる。政務に厳格で周囲からおそれられて「悪左府(あくさふ)」の異名をとり,55年(久寿2)の後白河天皇の即位を境に鳥羽法皇からも冷遇されて孤立。56年(保元元)の鳥羽死去を機に,崇徳(すとく)上皇とともに挙兵したが,敗死(保元の乱)。経書に通じ,合理的精神の持ち主として知られる。日記「台記(たいき)」。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…平安後期の廷臣。関白忠実の長男。母は源顕房女。法性寺(ほつしようじ)殿とよばれた。1107年(嘉承2)元服後急速に昇進し15年(永久3)には内大臣。21年(保安2)父の失脚に替わり関白・氏長者となり,翌年左大臣に転じた。23年崇徳天皇が即位すると摂政となり,28年(大治3)太政大臣,翌年天皇元服後太政大臣を辞し,ついで関白となった。同年白河法皇が没し鳥羽院政となるが,32年(長承1)に父忠実は院宣により内覧を命ぜられて政界に復帰した。…
…そこで忠通は美福門院への接近を図って策動し,その結果今度は忠実,頼長が鳥羽院の信頼を失って失脚,後白河天皇即位を機に頼長の関白就任・内覧宣下の望みは絶たれた。 56年7月2日鳥羽院が死去すると,天皇方は崇徳上皇,藤原頼長両人をしきりに挑発,上皇方はこれに乗って白河殿に源為義・為朝父子や平忠正らの武士を招集した。これに対し天皇方は為義の嫡子源義朝,忠正の甥平清盛など主要な武士を掌握していた。…
※「藤原頼長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新