白河(しらかわ)天皇の第1皇女。諱(いみな)は媞子(ていし)。母は源顕房(あきふさ)の女(むすめ)で藤原師実(もろざね)の養女となった賢子(けんし)。居所にちなみ六条院とも称される。1078年(承暦2)伊勢斎宮(いせさいくう)に定められたが、1084年(応徳1)母の死により退く。1091年(寛治5)に堀河(ほりかわ)天皇の准母(じゅんぼ)として中宮(ちゅうぐう)となって天皇の妻でないのに后位につく例を開き、1093年(寛治7)院号宣下(せんげ)を受け、郁芳門院と称した。父白河上皇の寵愛(ちょうあい)深く「天下の盛権只(ただ)此(こ)の人に在(あ)り」とさえいわれ、その崩御の翌々日に上皇は出家した。醍醐(だいご)円光院に葬ったので、墓所は上醍醐陵(かみのだいごのみささぎ)といわれる。
[福井俊彦]
『竜肅著『平安時代』(1962・春秋社)』▽『河野房雄著『平安末期政治史研究』(1979・東京堂出版)』
平安後期の皇后。媞子(ていし)内親王,六条院とも称す。白河天皇の第1皇女,母は源顕房の女で藤原師実の養女となった中宮賢子。承保3年4月誕生。同年8月に内親王となり,78年(承暦2)准三宮に,ついで伊勢斎宮になるが,84年(応徳1)母賢子の喪によって斎宮を退下して帰京,六条殿に住したため六条院と称せられる。91年(寛治5)同母弟の堀河天皇の准母として立后し,中宮となる。ここに妻后でなくして后位に登る例が開かれた。2年後に郁芳門院の院号を授けられたが,永長1年8月21歳をもって没した。女院は性質寛仁にして容姿端麗,父上皇の寵愛を一身に集め,ために女院の死に悲嘆した上皇はその2日後に世をはかなんで出家し,女院のために醍醐に無量光院を建立するとともに,女院の居所六条殿を改めて御堂としてその冥福を祈った。墓所は上醍醐陵といい,醍醐寺内にある。
執筆者:米田 雄介
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…かくして女院は後宮における地位の一つとみなされることになったが,二条院は天皇の生母ではなかったのが注意される。第5例の皇后媞子内親王が1093年(寛治7)1月に郁芳門院号を宣下されたのも,堀河天皇の女御篤子内親王の立后のためであった。なお郁芳門院は堀河天皇の准母であるが,従来の例とは異なり非妻后の皇后である。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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