日本歴史地名大系 「徳島城跡」の解説
徳島城跡
とくしまじようあと
徳島市街地のほぼ中央、東を
〔築城〕
天正一三年(一五八五)七月、羽柴秀長・秀次、宇喜多秀家、蜂須賀正勝・家政、小早川隆景・吉川元長を将とする羽柴秀吉軍の攻撃を三方より受けた長宗我部元親は、蜂須賀正勝の仲介で秀吉に降伏し(閏八月五日「長宗我部元親書状」徳島城博物館蔵)、八月六日以前に土佐一国を安堵された(閏七月六日「羽柴秀長書状」小早川家文書)。これに伴い四国が諸将に配分され、蜂須賀家政が赤松則房領(置塩領)・毛利吉政領(兵橘領)を除く阿波国を与えられた(「寛政重修諸家譜」「長元記」など)。家政はまず一宮氏歴代の居城であった
〔蜂須賀氏と徳島藩〕
徳島城は天正一三年の蜂須賀家政による築城以後、蜂須賀氏歴代の居城、徳島藩の政庁として幕末に至った。蜂須賀氏は尾張国
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報