徳島城下(読み)とくしまじようか

日本歴史地名大系 「徳島城下」の解説

徳島城下
とくしまじようか

徳島藩主蜂須賀氏の城下町名東みようどう郡内、吉野川(別宮川)河口デルタ地帯に立地し、そのため「島」がつく地名が多かった。天正一三年(一五八五)父正勝に代わって阿波を与えられた蜂須賀家政は、居城猪山いのやま(のちの徳島城)築城にあたるとともに城下町の建設を始めた。その第一歩として市中の町割を行い、徳島城下に居住しようとする者には屋敷地を与えることを阿波国内に触出し町人の誘致をうたった(阿淡年表秘録)。「阿波志」の載せる町人は蜂須賀氏の旧領播磨国龍野や出身地尾張国から招かれた者が多い。

城下は蜂須賀氏の居城の置かれた徳島を中心に、寺島てらしま出来島できじま瓢箪島ひようたんじま常三島じようさんじま助任すけとう前川まえがわ大岡おおか住吉島すみよしじま福島ふくしま安宅あたけ沖洲おきのす富田とみだ佐古さこからなり、これを「御山下ごさんげ」とよんだ。町割は徳島・寺島出来島瓢箪島常三島助任前川大岡・住吉島・福島・富田佐古には侍屋敷、助任・富田・佐古には足軽組屋敷を配置し、町人は寺島の中央に置かれたうち町と新町しんまち川を挟んだ対岸の新町のほか、佐古や助任、福島に居住地が限定された。寺院は山麓に二四ヵ寺が集められてら町が形成されたほか、戦時における兵の駐屯所を想定し、城下町の北はずれの助任に万福まんぷく寺や江西こうさい寺、西はずれの佐古に大安だいあん寺などを置いた。城のあった徳島は「惣構」あるいは「外郭」とよばれた徳島城の外郭をなすところで(寛政元年「御巡見御目附衆御尋有之節御答帳」蜂須賀家文書)、同地の周囲には石垣が築かれ、その上には松が植えられていたが、その松は福島橋北側に現在も残り、「藩政の松」として親しまれている。

徳島地区には寺島に通じる徳島橋(寺島橋)、福島へ通じる福島橋、常三島に通じる助任橋三橋が架けられており、城に直結したため軍事上重要視され、各橋の内側には門台が築かれ平士と番人が警備にあたった。また門台の外側には有力藩士の広大な屋敷が配置され、非常時には各橋の防備の役目を果した。すなわち徳島橋には家老稲田家屋敷(三千三七五坪)と同賀島家屋敷(四千二二六坪)、助任橋には中老山崎家と長江家・岩田家等、福島橋には中老寺沢家・森甚五兵衛家・同甚太夫家等の屋敷が配された。なお水軍の役所は城下町建設当初は常三島南東部の古安宅ふるあたけに置かれていたが、寛永一七年(一六四〇)に福島の東に移転され(「国元指置写」蜂須賀家文書)、水軍町を形成するようになった。同地は安宅とよばれ、水軍の役所や船置所が設けられ、その南の大工島だいくじまには船大工や鍛冶職人が住み、福島には船頭、安宅の東部沖洲には短冊状の水主(加子)屋敷が置かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の徳島城下の言及

【徳島[市]】より

…8月中旬に行われる阿波踊は有名。【高木 秀樹】
[徳島城下]
 阿波国徳島藩万7000石の城下町。1585年(天正13)蜂須賀家政が播州竜野から入国。…

※「徳島城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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