徳間村(読み)とくまむら

日本歴史地名大系 「徳間村」の解説

徳間村
とくまむら

[現在地名]長野市大字徳間

北国脇往還に沿った村落。東は上駒沢かみこまざわ村・三才さんざい村に境し、南は稲積いなづみ村とあさ川の分流の沢堰で境し、西は檀田まゆみだ村・西条にしじよう村と用水路で、北は駒沢川で東条ひがしじよう村・上野うえの村と境する。

天正一〇年(一五八二)七月の島津常陸介あての上杉景勝の朱印状(覚上公御代御書集)に、「弐拾弐貫文 若槻内徳間」とあって、中世から若月わかつき庄内の郷村であったが、当時は、慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に、「百弐拾八石八斗四升八合 上徳間村」、「四百拾六石五斗九升四合 下徳間村」とあるように、二村に分れていた。

徳間村
とくまむら

[現在地名]田主丸町竹野たけの

竹野村に隣接し、屋敷地は山辺やまべ往還北側にある(上三郡絵図)。本高は一一四石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一九〇石・役高二四一石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦四石六斗余・小麦二石三斗余・菜種七斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)。寛政元年(一七八九)の撫斗代五斗四升、人数五八、馬七(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高二四一石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一七町四反余・開田一反余・畑田五反余・畑二町六反余・居屋敷二反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android