竹野村(読み)たけのむら

日本歴史地名大系 「竹野村」の解説

竹野村
たけのむら

[現在地名]竹野町竹野 ・上町うえちよう中町なかちよう東町ひがしちよう馬場町ばばちよう下町したちよう西町にしちよう竹野駅前たけのえきまえ

竹野浜たけのはま村ともいい、竹野川の河口、日本海に面して位置する。海に臨んで古くから漁業・製塩が行われており、近世には舟運も発達したが、一方村高も現竹野町域では最大で、しかも田方が七割を超えていた。

古代の美含みくみ竹野たかの(和名抄)および同郷を継承する中世の竹野郷の遺称地。文禄四年(一五九五)出石いずし(現出石町)に入封した小出吉政領となり、慶長九年(一六〇四)その子吉英(出石藩主)が襲封、同一八年吉英の和泉岸和田藩主就任に伴い同藩領、元和五年(一六一九)吉英の出石再封で出石藩領に戻る。元禄九年(一六九六)いったん収公されるが、翌年出石藩領となり、天保七年(一八三六)に至る。同年仙石騒動による出石藩半知により収公されるが、嘉永四年(一八五一)出石藩領に復帰、幕末に至る(「寛政重修諸家譜」、慶長一八年「小出吉英所領目録」金井文書、「寛文朱印留」、宝永三年「仙石政明知行目録」・安政二年「仙石久利知行目録」仙石家文書、「御用部屋日記」など)。小出吉英所領目録に竹野浜村とみえ、高七五七石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では竹野村で、高は同前。


竹野村
たけのむら

[現在地名]田主丸町竹野

山辺やまべ往還北側に屋敷地があり、東は徳間とくま村。耕地は当村・徳間村三明寺さんみようじ村・くま村などが入組む(上三郡絵図)。本高は二一石(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高三〇石・役高三六石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦五斗余・小麦二斗余・菜種九升(「本地夏物成帳」中村家文書)。同一七年の本地田畑位附春免物成帳(矢野家文書)によると高三〇石、総畝数三町六反余、田二町一反余・畑田五畝余・畑一町三反余、居屋敷五畝余、撫斗代四斗九升。名請人は幸七・弥五左衛門の二人のみ。田代町宮田・かり町・なら山塚廻り・屋敷之上・屋敷之上西・屋敷下・屋敷廻りなどの字名があり、これらは明治初期の地所見図帳(田主丸町役場蔵)とほぼ一致する。


竹野村
たかのむら

[現在地名]丹後町竹野

竹野川の下流右岸の台地上に位置し、北は日本海に面す。村内を伊根街道が通る。竹野村の地からは弥生前期の竹野遺跡が発見されており、また神明山しんめいやま古墳・産土山うぶすなやま古墳・大成おおなる古墳群の存在、隣接するみや村に式内社竹野神社が鎮座することから、古くから開けた地であることがわかる。なお丹波の大県主由碁理は竹野里を国府としたという伝承があり、由碁理の女竹野媛が竹野神社を創始したとも伝える。

古代の竹野郷(和名抄)の中心地。中世末の丹後国御檀家帳には「たかのゝはま 家数卅軒斗」とあり、「はゝ助左衛門」ほか一一名の名が記される。

慶長検地郷村帳に高四一九・三一石とみえるがこれは筆石ふでし村を含んだものである。


竹野村
たけのむら

[現在地名]鈴鹿市竹野町・竹野一―二丁目・三日市みつかいち一丁目

三日市村の北にある低位段丘上の集落。鈴鹿川南岸まで約一キロ、付近は条里制の水田地帯であった。文禄検地帳には村名が見いだせず、寛永一三年(一六三六)本多俊次の領村として竹野村の名がみえる(亀山御領分雑記)。江戸時代を通じて亀山藩領。同書には延宝四年(一六七六)戸数三五(うち本役一一・無役二四)、人数一八八人、牛九とあり、次いで享保一五年(一七三〇)には、戸数四五、人数二一五、牛一二となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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