志多伯村
したはくむら
報得川の支流岡連川流域に位置する。集落は小城村のクワギフク森(桑木福森)と一連の丘陵であるカミジャナ森の南方斜面から裾野に立地する。間切集成図によると、東風平村から兼城間切座波村(現糸満市)に向かう道の北側にある。絵図郷村帳には下箱村と記され、別に赤嶺村が載り、「当時無之」の記載がある。現集落の北方にある大井戸の傾斜地一帯が赤嶺原とよばれており、赤嶺村を編入したと思われる。「琉球国由来記」には志多伯村と記されている。御嶽にはカミヂャナノ嶽、殿には外間之殿(現ジトウノ殿)・波平之殿・中地之殿(現オフドノノ殿)・中之殿があり、当銘ノロが祀っていた。「球陽」によると尚敬王一〇年(一七二二)には疲弊がはなはだしく、同一六年に耕作総頭・耕作当が置かれている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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