日本歴史地名大系 「忽那島庄」の解説
忽那島庄
くつなじまのしよう
初め忽那島に法隆寺の荘園があったことは、天平一九年(七四七)に勘録された法隆寺伽藍縁起并流記資財帳によって知られる。
この史料には忽那島のことを「骨奈嶋」と記している。この頃の荘は土地所有者が倉庫・事務所を建て、これに付属する土地を含んだことからすれば、この地域に生産的な土地があったのであろう。また法隆寺による開発事業の推進によって、耕作地も増加したことであろう。
平安時代に入って忽那島と書くようになり、島内に牧場が設けられ、また牛馬が貢物として納付されたことは、「延喜式」(兵部省)の諸国馬牛牧の条に、「伊予国」とあるので知られる。ところが「三代実録」の貞観一八年(八七六)一〇月一三日の条によると、島民は牛馬が繁殖し農耕のうえに被害を与えるので、その旨を政府に訴え、牛馬売却の許可を得ている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報