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法隆寺 ほうりゅうじ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

法隆寺
ほうりゅうじ

奈良県斑鳩 (いかるが) 町にある聖徳宗の総本山。正しくは法隆学問寺と称し,斑鳩寺 (いかるがでら) ,鵤僧寺 (いかるがそうじ) ともいう。南都七大寺の一つ。推古 15 (607) 年に聖徳太子が開創したと伝える。三論,法相両宗の兼学道場であったが,明治初期から法相宗,第2次世界大戦後,法相宗から分かれて聖徳宗を開いた。現存する世界最古の木造建築物で金堂五重塔,中門,回廊を主体とする西院と,夢殿を中心とする東院とに分かれる。飛鳥様式の西院伽藍は,創建時のものか,天智9 (670) 年に焼失後再建されたものかについて論争が続いたが,1939~83年の若草伽藍跡などの発掘調査の結果,焼失後8世紀初めまでに,少し離れた現在地に逐次再建されたことが証明された。東院は天平年間 (729~49) に斑鳩宮の旧構を寺としたもので,天平様式を伝える八角堂の夢殿をはじめ伝法堂,絵殿,舎利殿,回廊,鐘楼,諸門など,平安,鎌倉,室町時代にわたる建築物が集まっている。これらの仏教建築物の多くは国宝建造物であり,1993年には世界遺産 (文化遺産) に登録された。また金堂の壁画や,『薬師如来坐像』『釈迦三尊像』 (623) ,『四天王立像』,夢殿の『救世観音』,大宝蔵殿の『百済観音』『夢違観音』などの諸仏像,『玉虫厨子』『橘夫人念持仏厨子』などの寺宝の多くも,国宝に指定されている。

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知恵蔵の解説

法隆寺

2006年6月、奈良県斑鳩町の法隆寺で7世紀初め(飛鳥時代)の焼けた壁画片が出土した。04年発見のものを含め約140点にのぼり、法隆寺が火災で焼失し、再建されたことを裏付ける発見といえる。04年7月には金堂の天井に使われている木材が667年と668年に伐採されたことが年輪年代測定で判明。文献で670年とされている焼失年から、旧伽監(がらん)とは別に金堂はすでに建てられていた可能性もあり、論争になっている。

(天野幸弘 朝日新聞記者 / 今井邦彦 朝日新聞記者 / 2007年)

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デジタル大辞泉の解説

ほうりゅう‐じ〔ホフリユウ‐〕【法隆寺】

奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳宗の総本山。南都七大寺の一。もと法相(ほっそう)宗推古天皇15年(607)に聖徳太子斑鳩宮のそばに建立したと伝えられ、天智天皇9年(670)焼失したが再建されたとみられている。現存する世界最古の木造建築で、伽藍(がらん)は西院と東院に分かれ、金堂・五重の塔・講堂・南大門・中門・夢殿・回廊などほとんどの建物が国宝。また、釈迦三尊・薬師如来坐像・阿弥陀如来・百済(くだら)観音・救世(ぐぜ)観音立像・玉虫厨子(ずし)などの国宝のほか、絵画遺品や伎楽面・百万塔などの寺宝も多い。金堂の壁画は昭和24年(1949)の火災で焼失したが、のち復元。平成5年(1993)「法隆寺地域の仏教建造物」として世界遺産(文化遺産)に登録された。法隆学問寺。斑鳩寺。

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百科事典マイペディアの解説

法隆寺【ほうりゅうじ】

奈良県斑鳩(いかるが)町にある聖徳宗総本山。法隆学問寺,斑鳩寺とも。南都七大寺の一つ。起源は607年聖徳太子が用明天皇の遺志を継ぎ,薬師三尊像を安置したのに始まる。
→関連項目飛鳥時代斑鳩[町]鵤荘斑鳩宮入江波光漆絵円快縁起物エンタシス御物救世観音康勝講堂五重塔(建築)金堂食堂寺社縁起舎利塔定慶世界遺産条約関野貞天蓋天平時代東京国立博物館仁王門白鳳時代白鳳文化秦致貞毘沙門天法隆寺地域の仏教建造物法起寺山口大口費山背大兄王大和猿楽

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デジタル大辞泉プラスの解説

法隆寺

青江舜二郎による戯曲。副題「鳥の時代」。初演は劇団民芸(1958年)。同年、第4回新劇戯曲賞(のちの岸田国士戯曲賞)の候補作品となる。

法隆寺

奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。創建は607年。聖徳宗総本山、本尊は釈迦三尊。推古天皇と聖徳太子が創建。世界最古の木造建築とされる金堂、五重塔のほか、多くの国宝を所有。「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコ世界文化遺産に登録。南都七大寺のひとつ。別名、斑鳩(いかるが)寺。

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世界大百科事典 第2版の解説

ほうりゅうじ【法隆寺】

奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳宗の大本山。法隆学問寺・斑鳩(いかるが)寺(鵤寺・伊可留我寺)ともいう。推古天皇・聖徳太子創建の七ヵ寺の一つ。南都七大寺あるいは十五大寺の一つに数えられた。伽藍は西院と,夢殿を中心とする東院の二つに区画される。
【歴史】
 創建については正史に明記がないが,《日本書紀》には606年(推古14)7月斑鳩寺に水田100町を施入したとある。金堂の薬師如来光背の銘文には推古15年(607)用明天皇の遺命によって,聖徳太子が創建したとするが,像の様式や銘文の用語により異論があり,確定的でない。

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大辞林 第三版の解説

ほうりゅうじ【法隆寺】

奈良県斑鳩いかるが町にある聖徳宗総本山。もと法相宗。南都七大寺の一。七世紀初め聖徳太子の建立と伝えられる。西院伽藍は七世紀後半に建てられた中門・塔・金堂こんどうなどを含み、これらは世界最古の木造建築といわれる。夢殿を中心とする東院伽藍は、斑鳩宮のあった所に奈良時代になってから行信が造営したもの。金堂の釈迦三尊、百済観音、救世ぐぜ観音、玉虫厨子たまむしのずしなど飛鳥・奈良時代の優れた美術品を多数蔵する。1949年(昭和24)五重塔心礎内が調査され、舎利容器・金銅合子・海獣葡萄ぶどう鏡や、玉類・金板・香木など多くの荘厳具しようごんぐが発見された。斑鳩寺いかるがでら。 → 伽藍配置

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

法隆寺
ほうりゅうじ

奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳(しょうとく)宗総本山。斑鳩寺(鵤寺、伊可留我寺とも書く)、法隆学問寺などの異称がある。南都七大寺の一つ。[里道徳雄]

歴史

草創の由来は、金堂の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)光背銘によると、用明(ようめい)天皇が病気平癒を念じ、大王天皇(推古(すいこ)天皇)と聖徳太子を召して造寺と薬師像の造立を誓願したが果たさず崩御した。推古天皇と聖徳太子はその遺命を受けて、推古天皇15年(607)に寺と薬師像を完成したという。これは『顕真得業口訣抄(けんしんとくごうくけつしょう)』『古今目録抄』などにも「推古2年起工15年完成」とあって確かめられる。しかし、『東寺王代記』の記す崇峻(すしゅん)天皇の代、『興福寺年代記』の推古7年説、『興福寺略年代記』の推古21年説など、建立年代をめぐって諸説がある。いずれにせよ、金堂の釈迦(しゃか)如来三尊像が623年、聖徳太子逝去の翌年に造像されており、この年を下るものではない。太子は598年に播磨(はりま)国の地50万代(しろ)を法隆寺に施入、その後も606年に播磨国水田100町を施入、609年に270余町ずつ施納して経済的基盤を築いている。
 寺域は、太子が605年から622年まで住し政務をとった斑鳩宮(いかるがのみや)の西に位置した。643年(皇極天皇2)蘇我入鹿(そがのいるか)によって太子の子山背大兄王(やましろのおおえのおう)が襲撃され斑鳩宮は全焼したが、法隆寺は類焼を免れた。しかし『日本書紀』によれば、670年(天智天皇9)落雷によって全焼したとあり、その後に再建された伽藍(がらん)が現在の法隆寺伽藍とされる。この天智(てんじ)天皇9年焼亡説に対し、『法隆寺伽藍縁起並(ならびに)流記資財帳』やその他の法隆寺関係文書に火災記事がないところから、法隆寺再建非再建論争が起こり、大正から昭和にかけて、『日本書紀』に信を置く歴史学者と、様式論から立論する美術史学者の間で激論が展開された。しかし1939年(昭和14)の若草伽藍跡発掘調査などにより、現在では再建説が定説化している。それによれば、法隆寺草創の伽藍は、現在の伽藍から南東に位置する若草伽藍跡とよばれる地にあったとされる。同地から塔の心礎、金堂と塔の基壇の跡が発見されており、伽藍配置は塔と金堂が南北に一直線上に並ぶ四天王寺式で、中軸線は北より約20度西に傾斜(現法隆寺は西へ4度傾斜、16度の差がある)しており、斑鳩宮跡の方位とほぼ一致すること、また瓦(かわら)は現在の複弁ではなく、飛鳥(あすか)寺や四天王寺のように単弁の蓮華(れんげ)文であったことなどが判明した。さらに1968~69年(昭和43~44)の金堂解体修理の際、金堂礎石が旧伽藍の焼けた礎石を流用したものであることが明らかになった。
 再建法隆寺は旧若草伽藍から北西に位置を変え結構を変更して建立されたが、再建年代は不明。しかし、711年(和銅4)に五重塔の釈迦涅槃(ねはん)像などの塑像と中門の金剛力士像がつくられているので、金堂、五重塔、中門、回廊などは、持統(じとう)天皇の代(在位686~697)には建立されていたとみられ、8世紀初頭には経蔵などの建立をみ、諸堂が完成されたらしい。
 739年(天平11)僧行信(ぎょうしん)は斑鳩宮の跡に八角円堂の夢殿(ゆめどの)を中心とする伽藍を建立した。これが今日、金堂・五重塔の伽藍を西院とよぶのに対し、東院とよばれる上宮(じょうぐう)王院伽藍である。夢殿は現存の八角円堂中最古のもので、堂内には聖徳太子等身の御影(みえい)と伝えられる本尊救世観音(ぐぜかんのん)像を安置。行信の建立100年後、道詮(どうせん)律師が堂の修復を果たしたので、堂内には行信僧都(そうず)・道詮律師の坐像が並祀(へいし)されている。
 その後、法隆寺は、925年(延長3)大講堂が焼失し再建された。諸堂の修理は数度に及ぶ。わけても鎌倉時代の修理は1219年(承久1)東院の舎利殿(しゃりでん)・絵殿(えでん)の拡張再建、1230年(寛喜2)の再建に近い諸堂の改造、あるいは西円堂、聖霊院(しょうりょういん)、西室(にしむろ)・三経院(さんぎょういん)、東院礼堂(らいどう)、東院鐘楼の再建などがあって伽藍の様相を一新するものであった。江戸時代には慶長(けいちょう)大修理(1600~06)や元禄(げんろく)大修理(1690~1707)が行われ、各堂の部材が取り替えられた。また1933年から53年にかけて法隆寺伽藍昭和大修理がなされ、建物はすべて解体修理し、改造部分を除いて建造当初の姿に復原された。この間、1949年1月に金堂壁画が焼失する不幸があったが、68年模写再現された。その後、大宝蔵殿が完成、綱封蔵(こうふうぞう)伝来品ほか多数の寺宝を収蔵、展観されるようになった。
 聖徳太子が『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』(「勝鬘経(しょうまんきょう)義疏」「維摩(ゆいま)義疏」「法華(ほっけ)義疏」)を作成し講じたことは有名であるが、この伝統はよく護持され、法隆寺は法相(ほっそう)、三論、律、真言(しんごん)の四宗兼学道場として南都の学問の中心に位置し、道詮をはじめ高僧が歴住し、倶舎唯識(くしゃゆいしき)の学者を輩出した。1585年(天正13)の古図によると子院は62を数え、太子信仰の中心としても栄え、明治以降も聖徳太子奉賛会などの組織を通して維持管理されている。1950年太子の遺徳を表す意味をもって聖徳宗を開き、その総本山となった。[里道徳雄]

伽藍・行事

現法隆寺境内は西院伽藍と東院伽藍からなり、10余の塔頭(たっちゅう)を擁している。伽藍の総門にあたる南大門左右には長い築地(ついじ)塀が延びる。西院伽藍は五重塔が西に、金堂が東に並列する法隆寺式伽藍配置で、金堂、五重塔、中門と回廊部分は飛鳥時代の建築様式を伝える世界最古の木造建築である。回廊の外、東側には東室・聖霊院、妻室、綱封蔵、細殿(ほそどの)、食堂など、西側には西室・三経院がある。東院伽藍は夢殿を中心として、礼堂、舎利殿・絵殿、回廊、鐘楼、伝法(でんぽう)堂などからなる。これら建築物の多くが国宝、国重要文化財に指定されており、また堂内には貴重な仏像、絵画、工芸品を多く蔵し日本美術史の一大宝庫となっている。1993年(平成5)には、法隆寺地域の仏教建造物が世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産)。
 なお、明治維新後、法隆寺も衰退し、1878年(明治11)宝物の一部を皇室に献納して下賜金を受けた。これは法隆寺献納宝物とよばれ、現在は東京国立博物館に展示されている。
 おもな年中行事には、東院舎利殿で行われる舎利講(1月1~3日)、金堂修正会(しゅしょうえ)(1月8~14日)、西円堂修二会(しゅにえ)(2月1~3日)、お会式(えしき)(3月22~24日)、夏安居(げあんご)(5月16日~8月15日)などがある。修二会は薬師如来の前で修され、3日目夜の結願(けちがん)に行われる追儺(ついな)式は名高い。またお会式には聖霊院内に米粉でつくった鳥・花など華麗な供物が供えられ、聖徳太子を賛嘆する。[里道徳雄]
『鈴木嘉吉・久野健編『法隆寺』(『原色日本の美術 2』1966・小学館) ▽町田甲一著『法隆寺』(1967・角川書店) ▽奈良六大寺大観刊行会編『法隆寺』(『奈良六大寺大観』1~5・1968~72・岩波書店) ▽『法隆寺と斑鳩の寺』(『日本古寺美術全集 2』・1979集英社)』

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世界大百科事典内の法隆寺の言及

【斑鳩[町]】より

…奈良県北西部,生駒郡の町。1947年に竜田町,法隆寺村,富郷村が合体して改称。人口2万8371(1995)。…

【寺院建築】より

…中金堂は母屋(もや)のみ壁と扉で囲む聖域とし,四周は吹放しだったらしい。斑鳩寺は焼けて7世紀後半に法隆寺として再建され,これが現存世界最古の木造建築として金堂,五重塔,中門,回廊,東室を伝える。塔と金堂を左右に並べ,胴張りのある太い円柱に雲斗(くもと),雲肘木(くもひじき)を用い,軒を深く出す。…

【舎利容器】より


[日本]
 古代寺院跡から発見された舎利容器の実例は数例にしかすぎないが,それらの例からすれば外容器として金器,銀器,銅器が順に入れ子にして用いられ,舎利の直接容器としてガラス器を用いるのが正式なものだったようである。崇福寺跡の例では,心礎の側面にうがたれた舎利孔から金製の蓋をもつ緑色のガラス製舎利容器を納めた金箱,銀箱,金銅箱の外容器が,法隆寺では西院五重塔心礎上面にうがたれた舎利孔から銀栓をした緑色のガラス製舎利容器を納めた透し彫の卵形金器,同銀器,金銅壺が出土した。山田寺の場合もこうした埋納法であることが《上宮聖徳法王帝説》裏書に見えているので,断片的に遺存している飛鳥寺,法輪寺,太田廃寺なども同じような形で埋納されたものと考えられる。…

【善愷訴訟事件】より

…法隆寺僧の善愷が846年(承和13),法隆寺檀越で当時少納言であった登美直名(とみのただな)を,寺産を不正に自己のものとしたとして直接弁官に訴えた事件。このような檀越の専横は当時多く見られたが,この訴訟はことに,9世紀初頭に沈滞の極に達し檀越登美氏から疎外されていた法隆寺僧の,道詮を中心とした自主性回復運動を背景としていた。…

【南都七大寺】より

…677年(天武6)の大官大寺に始まる大寺制は,四大寺,五大寺と発展し,756年(天平勝宝8)5月に七大寺の名が初見する。8世紀後半に西大寺が創建されるに及んで,東大寺,大安寺,興福寺,元興(がんごう)寺,薬師寺,法隆寺,西大寺を七大寺と称するにいたった。大寺の造営にはそれぞれ官営の造寺司を設けてことに当たり,経営維持のため莫大な封戸・荘地が施入され,別当や三綱が寺・寺僧の運営指導に当たった。…

【仏教】より

…太子は605年(推古13)斑鳩に移り,この地が飛鳥とならんで当代仏教の中心となった。斑鳩には前後三つの法隆寺が存在したと考えられる。在地豪族の膳(かしわで)氏が建立した第1次の寺,太子が建てた第2次の若草伽藍,そしてその再建の第3次の寺である。…

【法隆寺再建非再建論争】より

…法隆寺西院伽藍の金堂,塔,中門,回廊が7世紀初めの推古朝創建の建造物であるか,あるいは一度焼亡して再建されたものであるのかについての論争。同伽藍が日本最古の建造物であることから,建築史,美術史,日本史,考古学の諸家によって19世紀末から半世紀にわたって論争された。…

※「法隆寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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