607年ごろに聖徳太子によって建立された。日本書紀の記述などから670年に焼失し、数十年後に再建されたとする説が強い。当初の建物跡は若草
更新日:
出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
法隆寺は斑鳩寺ともいったが、「日本書紀」推古天皇一四年条に、播磨国水田一〇〇町が斑鳩寺に施入された記事がある。しかしこれには疑問をいだく人が多い。天平一九年(七四七)の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳によると、推古天皇一五年に法隆寺が完成。また皇年代記(興福寺蔵)には同二一年に「太子造法隆寺」とある。金堂安置の薬師如来光背銘に、「池辺大宮治天下天皇、大御身労賜時、歳次丙午年、召於大王天皇与太子而、誓願賜、我大御病大平欲坐、故将造寺薬師像作仕奉詔、然当時崩賜、造不堪者、小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王、大命受賜而、歳次丁卯年仕奉」とある。すなわち、用明天皇の病気平癒を念じて寺を造り薬師像を作ることを誓願したが、天皇が没したので、推古天皇と聖徳太子はこの大命を受けて同一五年丁卯の年に造立した。この銘文については異論が多く後刻とみられているが、いちおう内容的には法隆寺の草創事情を伝えている。こうして造立された法隆寺は天智天皇九年に全焼したとすると、西院伽藍はその後再建されたことになる。そこで若草伽藍との関係を考えなければならない。古い遺構は検出されたが焼痕は明らかにしえない。若草伽藍が西院伽藍に先行するとすれば、西院伽藍の建立年代はどうなるか。法隆寺伽藍縁起并流記資財帳によって、中門の仁王像は和銅四年(七一一)の造立とわかり、五重塔内塑像群も同様である。少なくとも和銅四年には主要建造物は大体できていたであろう。
東院は聖徳太子斑鳩宮の場所で、地下遺構も発見されていて、太子はこの地で推古天皇三〇年に没した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳宗の大本山。法隆学問寺・斑鳩(いかるが)寺(鵤寺・伊可留我寺)ともいう。推古天皇・聖徳太子創建の七ヵ寺の一つ。南都七大寺あるいは十五大寺の一つに数えられた。伽藍は西院と,夢殿を中心とする東院の二つに区画される。1993年〈法隆寺地域の仏教建造物〉が世界文化遺産に登録されている。
創建については正史に明記がないが,《日本書紀》には606年(推古14)7月斑鳩寺に水田100町を施入したとある。金堂の薬師如来光背の銘文には推古15年(607)用明天皇の遺命によって,聖徳太子が創建したとするが,像の様式や銘文の用語により異論があり,確定的でない。ただ最初の法隆寺が推古天皇の時代に建立されたことは疑いない。太子の私寺として建立された当寺は,648年(大化4)に寺封300戸が施入され,678年(天武7)に支給は停止された。この間670年(天智9)に一屋余さず焼亡した。747年(天平19)の《法隆寺伽藍縁起並流記資財帳》には五重塔の塔本塑像や中門の力士像2体は711年(和銅4)に完成したと明記され,722年(養老6)には寺封300戸が施入されたが,727年(神亀4)には停止された。再建の伽藍の経済的地盤や方法についてはまったくつまびらかでないが,711年ころには今日みる西院の寺観が整備されたとする説が有力で,722年から一時期支給された封は,付属的な建物などの建立に用いられたとも解せられる。再建の寺構は,金堂・塔などを南北に一直線上に配置する様式を改め,これを東西に配置するいわゆる法隆寺式伽藍配置となった。738年(天平10)4月には永世施入の食封300戸が寄せられた。《法隆寺伽藍縁起並流記資財帳》によると,律・三論・唯識(法相)・別三論の4宗の宗団があって研究が行われていた。749年(天平勝宝1)7月には四天王寺など8ヵ寺とともに500町の墾田が認められた。
923-925年(延長1-3)に講堂・僧坊の一部が炎上,11世紀以降は西円堂・綱封蔵・西室僧坊などが倒壊したり炎上したが,その多くは再興されて講堂の修理も行われ,また〈法隆寺一切経〉が勝賢や林幸らの勧進で整備された。鎌倉時代には後白河院・源頼朝の帰依もあったが,中期以降に顕真得業による太子信仰の高揚や慶政による修理が行われ,慶長年間(1596-1615)と元禄年間(1688-1704)の修理を経て,昭和大修理に至った。
西院伽藍の東方に隣接する東院伽藍は上宮王院といい,八角円堂の夢殿と伝法堂・絵殿・舎利殿よりなる。夢殿は,643年(皇極2)蘇我入鹿の手により焼亡した太子の斑鳩宮(いかるがのみや)跡に,739年(天平11)僧行信により造営され,北魏様式の救世観音像を安置してあることにより著名である。夢殿の背後には馬道を中央にして二つに区別された舎利殿と絵殿がある。その後方にあるのが講堂に当たる伝法堂で,橘三千代の冥福を祈願して奈良時代に創建されたものである。昭和大修理に際して発掘調査が行われ,斑鳩宮の旧跡が認知された。平安時代に入り東院の復興に尽力したのは富貴寺道詮で,859年(貞観1)修理を施すかたわら水田を施入し,秦致真は1069年(延久1)に《聖徳太子絵伝》を描いて絵殿に納めた。鎌倉時代になると興福寺貞慶は釈迦念仏を始行したが,なかでも京都の西山法華山寺(松尾寺)の慶政は1219年(承久1)ころより舎利殿・夢殿・礼堂などを修造した。慶政は摂政九条良経の長子で関白道家の兄に当たる。慶政の当院再興は道家周辺の貴族を動かし,法隆寺への関心を高めるに至った。近世には,慶長・元禄年間に夢殿・舎利殿・絵殿・伝法堂をはじめとして回廊などが修理された。
現在,1月7日から14日にかけて金堂で吉祥悔過(けか)の修正会が行われ,16日から3日間は夢殿で同じ修正会がある。西円堂では2月1日から3日間薬師悔過の修正会が修され,その結願に鬼追いの式が行われる。
執筆者:堀池 春峰
法隆寺は現存する最も古い寺院として,また飛鳥時代から奈良時代にかけての文化財を,多数蔵していることで知られる。しかし,こうした聖徳太子創立以来の歴史を物語るにとどまらず,各時代の遺構,遺品も豊富で,時代の特色を反映するとともに,南都諸大寺の中でも特異な位置にあったことを示している。
法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と,夢殿を中心とする東院伽藍に分かれる。かつて西院伽藍は飛鳥時代の建築と考えられていたが,長い再建非再建論争の末(法隆寺再建非再建論争),670年に焼失後,再建されたものとの結論に達した。飛鳥時代,創建当初の伽藍は,現在の西院伽藍の南東方にわずかに塔心礎を残し,若草伽藍と呼ばれる。発掘調査により南北に並ぶ塔と金堂,北辺・西辺を限る柵や溝が確認され,いわゆる四天王寺式の伽藍配置をとっていた。一方,聖徳太子の斑鳩宮の故地に,その荒廃を嘆いた僧行信が,739年(天平11)寺をつくったのが現在の東院伽藍で,発掘調査により斑鳩宮の遺構が確認されている。
飛鳥時代の建築は皆無だが,西院伽藍の中心は白鳳時代の建立になる。金堂,塔,中門,回廊が一連の計画のもとにひきつづき造営され,8世紀初めに竣功した。柱の胴張り(エンタシス),皿斗(さらと)つきの大斗,雲斗栱,反りのない一軒の垂木,人字(にんじ)形割束,卍(まんじ)崩しの高欄の組子などが特色で,その源流として2~7世紀の中国や高句麗の建築様式が考えられている。
奈良時代では西院に,経蔵,もと政所の建物であった食堂(じきどう),東僧房である東室があり,東院には八角円堂である夢殿,もと橘夫人家の住宅であった伝法堂がある。このうち西院食堂は,もとは前面の細殿(ほそどの)を礼堂(らいどう)とする双堂(ならびどう)であった。また夢殿は鎌倉時代に大改造をうけている。平安時代の遺構では,西院の講堂,鐘楼,妻室,綱封蔵,羅漢堂がある。講堂は当初桁行8間で,後に9間に拡張され,また創建時,中門から延びて塔・金堂のみを囲っていた回廊も,鐘楼,経蔵とともに講堂と結ばれた。羅漢堂は近在の富貴寺から移されたものである。
鎌倉時代には東室南の一部を改造し,聖徳太子をまつる聖霊院(造営は平安末,1284年(弘安7)全面改築),同様に西僧坊南の一部を改造した三経院,八角の西円堂,細殿,上御堂(かみのみどう),新堂などが西院に遺存する。また西院・東院間北側の宗源寺にはこの時期の四脚門がある。中世には大仏様(天竺様)や禅宗様(唐様)といった新しい建築様式が中国から導入され,従来の和様にもとり入れられるが,中世の法隆寺は興福寺支配下にあって,伝統的な和様の技法を守る工匠が携わったらしく,新たな技法,様式の導入はわずかしかみられない。室町時代以降は子院の本堂や表門等が目だつが,西院築垣が版築による築地として古例である。
飛鳥時代の造立になる仏像は,金堂の釈迦三尊像,四天王像,夢殿の救世(ぐぜ)観音像,宝物館所蔵の百済観音像と,現在東京国立博物館にある小金銅仏群(四十八体仏)がある。釈迦三尊は聖徳太子とその妃のため,推古31年(623)止利仏師(鞍作止利)が造ったとの銘があり,四天王像は山口大口費(やまぐちのおおくちのあたえ)作の銘があって,以後の四天王像と像容をまったく異にする。救世観音と百済観音は対照的な作風で,前者が釈迦三尊などとともに北魏様式を示すのに対し,後者には南朝様式がみとめられ,同じ飛鳥時代ながら法隆寺を舞台に多様な展開があったことが知られる。なお金堂薬師如来は推古15年(607)造顕の銘を持ち,古拙な表現をとるが,金堂完成後の擬古作とする説もあり,その銘の信憑性が疑われている。
白鳳時代を代表する仏像は,夢違観音の名で親しまれる聖観音像,橘夫人念持仏と伝える阿弥陀三尊像がある。唐代の,より完成した様式への接近をうかがわせる。また,金堂天蓋,天蓋上の飛天・鳳凰,薬師如来脇侍と伝える2体の観音像,六観音と俗称される愛らしい木造の菩薩像群などがあり,堂内荘厳のため造像された阿弥陀三尊および二比丘の鎚鍱(ついちよう)像(押出仏)もこの期のもの。奈良時代には西院伽藍の完成と前後して,711年(和銅4)五重塔初重の四面に塔本塑像が造られた。仏陀の生涯を立体的に表すもので,塔本塑像として完全に残るのはこれのみである。食堂の梵天・帝釈天像,四天王像は天平塑像彫刻の萌芽期を示し,金堂の吉祥天塑像(旧食堂安置)は奈良時代後期に盛行する吉祥悔過会との関連をうかがわせる。このほか西円堂の乾漆薬師如来像,夢殿の弥勒菩薩像,伝法堂の3組の阿弥陀三尊像などがあるが,この期の肖像彫刻として唐招提寺鑑真像と並ぶ行信像(夢殿)は特筆される。
平安時代に入ると,法隆寺の文化財も密教や垂迹信仰の影響をうかがわせるものがあり,また中世以降盛んとなる聖徳太子信仰の最も早い例が現れる。金堂には吉祥天像,毘沙門天像,地蔵菩薩像がある。このうち地蔵菩薩は大御輪寺旧蔵で,当初は神像であったかと考えられる。講堂に10~11世紀の作とされる薬師三尊と四天王像,聖霊院には聖徳太子および侍者像が残る。鎌倉時代以降は彫刻に見るべきものが乏しく,もっぱら絵画にその中心が移るが,三経院の聖徳太子像,阿弥陀如来像,西円堂の十二神将像などがあげられる。
絵画・工芸においても,法隆寺は建築に劣らず多くの優品を伝えている。玉虫厨子は須弥座に描かれた釈迦の本生図で著名だが,伝存しない飛鳥時代建築の様式を知るうえでも貴重である。また扉や内部には押出仏による千仏像がはられている。金堂は西院伽藍中,最も早く完成し,壁画も和銅年間(708-715)以前に完成していたと考えられている。1949年の火災によって内陣長押(なげし)上の小壁を除き無残な姿となって取りはずされ,現在の壁面は模写である。壁面は外陣の大壁4,小壁8,長押上の小壁18,内陣長押上の小壁20面からなり,隈取による陰影法や浄土変相図の構成など,中国敦煌にみる初唐様式の影響がうかがえる。白鳳期の工芸としては,先述した阿弥陀三尊像を納める橘夫人念持仏厨子,唐伝来の蜀江錦が注目される。
奈良時代には庭儀法要のさまをほうふつとさせる伎楽面,舞楽面,響銅(さはり)の金銅鉢,水瓶,また錫杖,柄香炉などの法具がある。百万塔はろくろ仕上げによる木製塔だが,恵美押勝の乱(764)鎮定後,十大寺に10万基ずつ分置されたもので,法隆寺のみに残った。最古の印刷物である陀羅尼を納め,塔にも工人名などを記す墨書がある。なお〈行信願経〉と呼ばれる法華経,大般若経が伝わり,盛唐の書体を受けついでいる。
平安時代の《聖徳太子絵伝》は,太子信仰の遺品として最も早い一例だが,もとは東院絵殿に掲げられていたもので,現在は東京国立博物館に移されている。平安期の密教の浸透を示すものに,〈法華曼荼羅〉〈星曼荼羅〉があり,学問寺としての教学活動の成果を示すものには〈法隆寺一切経〉《三蔵法師伝》《大唐西域記》《維摩経義疏》などの聖教類が伝存する。鎌倉時代には仏像の造像に代わって仏画,曼荼羅の制作が盛んとなる。しかも中世にきわめて隆盛をみる太子信仰を反映する遺品が多い。また《維摩経義疏》《勝鬘経義疏》やいわゆる十七条憲法の版木などがある。
執筆者:山岸 常人
法隆寺の文化財のうち,国宝,重要文化財の指定を受けたものは,約200件に及ぶ。このうち61件が,東京国立博物館の法隆寺宝物館に保管されている〈法隆寺献納宝物〉である。明治維新後,神仏分離,廃仏毀釈で法隆寺も衰微し,宝物の修理や管理さえままならぬ状況となった。1871年(明治4)以後,古文化財保存の動きが現れ,75年に東大寺大仏殿において,正倉院,法隆寺の宝物を中心とする古美術博覧会が開かれた。このおり,法隆寺からも宝物を宮内省へ献上しようとの話がもち上がり(正倉院宝物は同年に政府管理となり1884年から宮内省管理となる),78年献納が決定した。第2次大戦後,皇室財産から国有と変わり,1964年には法隆寺宝物館が開館した。現在は300余点が保管陳列されている。
法隆寺献納宝物は,仏像のみならず法具,什器など,飛鳥から江戸に至る各種のものが含まれている。しかしおもなものは飛鳥・白鳳期のもので,小金銅仏(いわゆる四十八体仏),伎楽面30点,金銅幡(ばん),灌頂幡,蜀江錦小幡,狩猟文錦褥(きんじよく),各種の法具,文房具など,金工,漆工,木工,染織の優れた美術工芸品からなる。正倉院宝物より一時代前の,しかもまとまって伝存した点においても,きわめて貴重である。
執筆者:上田 敬二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳(しょうとく)宗総本山。斑鳩寺(鵤寺、伊可留我寺とも書く)、法隆学問寺などの異称がある。南都七大寺の一つ。
[里道徳雄]
草創の由来は、金堂の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)光背銘によると、用明(ようめい)天皇が病気平癒を念じ、大王天皇(推古(すいこ)天皇)と聖徳太子を召して造寺と薬師像の造立を誓願したが果たさず崩御した。推古天皇と聖徳太子はその遺命を受けて、推古天皇15年(607)に寺と薬師像を完成したという。これは『顕真得業口訣抄(けんしんとくごうくけつしょう)』『古今目録抄』などにも「推古2年起工15年完成」とあって確かめられる。しかし、『東寺王代記』の記す崇峻(すしゅん)天皇の代、『興福寺年代記』の推古7年説、『興福寺略年代記』の推古21年説など、建立年代をめぐって諸説がある。いずれにせよ、金堂の釈迦(しゃか)如来三尊像が623年、聖徳太子逝去の翌年に造像されており、この年を下るものではない。太子は598年に播磨(はりま)国の地50万代(しろ)を法隆寺に施入、その後も606年に播磨国水田100町を施入、609年に270余町ずつ施納して経済的基盤を築いている。
寺域は、太子が605年から622年まで住し政務をとった斑鳩宮(いかるがのみや)の西に位置した。643年(皇極天皇2)蘇我入鹿(そがのいるか)によって太子の子山背大兄王(やましろのおおえのおう)が襲撃され斑鳩宮は全焼したが、法隆寺は類焼を免れた。しかし『日本書紀』によれば、670年(天智天皇9)落雷によって全焼したとあり、その後に再建された伽藍(がらん)が現在の法隆寺伽藍とされる。この天智(てんじ)天皇9年焼亡説に対し、『法隆寺伽藍縁起並(ならびに)流記資財帳』やその他の法隆寺関係文書に火災記事がないところから、法隆寺再建非再建論争が起こり、大正から昭和にかけて、『日本書紀』に信を置く歴史学者と、様式論から立論する美術史学者の間で激論が展開された。しかし1939年(昭和14)の若草伽藍跡発掘調査などにより、現在では再建説が定説化している。それによれば、法隆寺草創の伽藍は、現在の伽藍から南東に位置する若草伽藍跡とよばれる地にあったとされる。同地から塔の心礎、金堂と塔の基壇の跡が発見されており、伽藍配置は塔と金堂が南北に一直線上に並ぶ四天王寺式で、中軸線は北より約20度西に傾斜(現法隆寺は西へ4度傾斜、16度の差がある)しており、斑鳩宮跡の方位とほぼ一致すること、また瓦(かわら)は現在の複弁ではなく、飛鳥(あすか)寺や四天王寺のように単弁の蓮華(れんげ)文であったことなどが判明した。さらに1968~1969年(昭和43~44)の金堂解体修理の際、金堂礎石が旧伽藍の焼けた礎石を流用したものであることが明らかになった。
再建法隆寺は旧若草伽藍から北西に位置を変え結構を変更して建立されたが、再建年代は不明。しかし、711年(和銅4)に五重塔の釈迦涅槃(ねはん)像などの塑像と中門の金剛力士像がつくられているので、金堂、五重塔、中門、回廊などは、持統(じとう)天皇の代(称制686~689、在位690~697)には建立されていたとみられ、8世紀初頭には経蔵などの建立をみ、諸堂が完成されたらしい。
739年(天平11)僧行信(ぎょうしん)は斑鳩宮の跡に八角円堂の夢殿(ゆめどの)を中心とする伽藍を建立した。これが今日、金堂・五重塔の伽藍を西院(さいいん)とよぶのに対し、東院(とういん)とよばれる上宮(じょうぐう)王院伽藍である。夢殿は現存の八角円堂中最古のもので、堂内には聖徳太子等身の御影(みえい)と伝えられる本尊救世観音(ぐぜかんのん)像を安置。行信の建立100年後、道詮(どうせん)律師が堂の修復を果たしたので、堂内には行信僧都(そうず)・道詮律師の坐像が並祀(へいし)されている。
その後、法隆寺は、925年(延長3)大講堂が焼失し再建された。諸堂の修理は数度に及ぶ。わけても鎌倉時代の修理は1219年(承久1)東院の舎利殿(しゃりでん)・絵殿(えでん)の拡張再建、1230年(寛喜2)の再建に近い諸堂の改造、あるいは西円堂、聖霊院(しょうりょういん)、西室(にしむろ)・三経院(さんぎょういん)、東院礼堂(らいどう)、東院鐘楼の再建などがあって伽藍の様相を一新するものであった。江戸時代には慶長(けいちょう)大修理(1600~1606)や元禄(げんろく)大修理(1690~1707)が行われ、各堂の部材が取り替えられた。また1934年(昭和9)から1956年にかけて法隆寺伽藍昭和大修理がなされ、建物はすべて解体修理し、改造部分を除いて建造当初の姿に復原された(1985年に昭和大修理完成法要が行われた)。この間、1949年1月に金堂壁画が焼失する不幸があったが、1968年模写再現された。その後、大宝蔵殿が完成、綱封蔵(こうふうぞう)伝来品ほか多数の寺宝を収蔵、展観されるようになった。
聖徳太子が『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』(「勝鬘経(しょうまんきょう)義疏」「維摩経(ゆいまきょう)義疏」「法華(ほっけ)義疏」)を作成し講じたことは有名であるが、この伝統はよく護持され、法隆寺は法相(ほっそう)、三論、律、真言(しんごん)の四宗兼学道場として南都の学問の中心に位置し、道詮をはじめ高僧が歴住し、倶舎唯識(くしゃゆいしき)の学者を輩出した。1585年(天正13)の古図によると子院は62を数え、太子信仰の中心としても栄え、明治以降も聖徳太子奉賛会などの組織を通して維持管理されている。1950年太子の遺徳を表す意味をもって聖徳宗を開き、その総本山となった。
[里道徳雄]
現法隆寺境内は西院伽藍と東院伽藍からなり、10余の塔頭(たっちゅう)を擁している。伽藍の総門にあたる南大門左右には長い築地(ついじ)塀が延びる。西院伽藍は五重塔が西に、金堂が東に並列する法隆寺式伽藍配置で、金堂、五重塔、中門と回廊部分は飛鳥時代の建築様式を伝える世界最古の木造建築である。回廊の外、東側には東室(ひがしむろ)・聖霊院、妻室(つまむろ)、綱封蔵、細殿(ほそどの)、食堂(じきどう)など、西側には西室・三経院がある。東院伽藍は夢殿を中心として、礼堂、舎利殿・絵殿、回廊、鐘楼、伝法(でんぽう)堂などからなる。これら建築物の多くが国宝、国の重要文化財に指定されており、また堂内には貴重な仏像、絵画、工芸品を多く蔵し日本美術史の一大宝庫となっている。1993年(平成5)には、法隆寺地域の仏教建造物が世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産)。
なお、明治維新後、法隆寺も衰退し、1878年(明治11)宝物の一部を皇室に献納して下賜金を受けた。これは法隆寺献納宝物とよばれ、現在は東京国立博物館に収蔵・展示されている。
おもな年中行事には、東院舎利殿で行われる舎利講(1月1~3日)、金堂修正会(しゅしょうえ)(1月8~14日)、西円堂修二会(しゅにえ)(2月1~3日)、お会式(えしき)(3月22~24日)、夏安居(げあんご)(5月16日~8月15日)などがある。修二会は薬師如来の前で修され、3日目夜の結願(けちがん)に行われる追儺(ついな)式は名高い。またお会式には聖霊院内に米粉でつくった鳥・花など華麗な供物が供えられ、聖徳太子を賛嘆する。
[里道徳雄]
『鈴木嘉吉・久野健編『法隆寺』(『原色日本の美術 2』1966・小学館)』▽『町田甲一著『法隆寺』増訂新版(1987・時事通信社)』▽『奈良六大寺大観刊行会編『法隆寺』補訂版(『奈良六大寺大観』1~5・1999~2001・岩波書店)』▽『『法隆寺と斑鳩の寺』(『日本古寺美術全集 2』1979・集英社)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
斑鳩(いかるが)(鵤・伊可留我)寺・法隆学問寺とも。奈良県斑鳩町にある聖徳宗総本山。南都七大寺の一つ。塔・金堂を中心とする西院伽藍と,夢殿を中心とする東院伽藍に区分される。用明天皇が病に際し発願した寺院の建立を推古天皇と聖徳太子がうけつぎ,607年(推古15)に完成させたと伝える。これに先立つ606年には播磨国の水田100町が施入された。670年(天智9)火災により全焼したと「日本書紀」にあるが,1939年(昭和14)の若草伽藍跡発掘により,創建時の伽藍の焼失が確認された。現在の西院伽藍は7世紀末~8世紀初め頃に再建されたと考えられるが,建築は飛鳥時代の様式を伝えており,法隆寺式とよばれる伽藍配置をとる。739年(天平11)には太子の斑鳩宮跡に行信(ぎょうしん)が東院伽藍を建立した。平安後期から太子信仰の隆盛にともなって発展し,太子の命日に聖霊会(しょうりょうえ)が修されるようになった。数多くの文化財を所蔵し,現在も寺宝の調査が進められている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
(天野幸弘 朝日新聞記者 / 今井邦彦 朝日新聞記者 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…奈良県北西部,生駒郡の町。1947年に竜田町,法隆寺村,富郷村が合体して改称。人口2万8371(1995)。…
…中金堂は母屋(もや)のみ壁と扉で囲む聖域とし,四周は吹放しだったらしい。斑鳩寺は焼けて7世紀後半に法隆寺として再建され,これが現存世界最古の木造建築として金堂,五重塔,中門,回廊,東室を伝える。塔と金堂を左右に並べ,胴張りのある太い円柱に雲斗(くもと),雲肘木(くもひじき)を用い,軒を深く出す。…
…
[日本]
古代寺院跡から発見された舎利容器の実例は数例にしかすぎないが,それらの例からすれば外容器として金器,銀器,銅器が順に入れ子にして用いられ,舎利の直接容器としてガラス器を用いるのが正式なものだったようである。崇福寺跡の例では,心礎の側面にうがたれた舎利孔から金製の蓋をもつ緑色のガラス製舎利容器を納めた金箱,銀箱,金銅箱の外容器が,法隆寺では西院五重塔心礎上面にうがたれた舎利孔から銀栓をした緑色のガラス製舎利容器を納めた透し彫の卵形金器,同銀器,金銅壺が出土した。山田寺の場合もこうした埋納法であることが《上宮聖徳法王帝説》裏書に見えているので,断片的に遺存している飛鳥寺,法輪寺,太田廃寺なども同じような形で埋納されたものと考えられる。…
…法隆寺僧の善愷が846年(承和13),法隆寺檀越で当時少納言であった登美直名(とみのただな)を,寺産を不正に自己のものとしたとして直接弁官に訴えた事件。このような檀越の専横は当時多く見られたが,この訴訟はことに,9世紀初頭に沈滞の極に達し檀越登美氏から疎外されていた法隆寺僧の,道詮を中心とした自主性回復運動を背景としていた。…
…677年(天武6)の大官大寺に始まる大寺制は,四大寺,五大寺と発展し,756年(天平勝宝8)5月に七大寺の名が初見する。8世紀後半に西大寺が創建されるに及んで,東大寺,大安寺,興福寺,元興(がんごう)寺,薬師寺,法隆寺,西大寺を七大寺と称するにいたった。大寺の造営にはそれぞれ官営の造寺司を設けてことに当たり,経営維持のため莫大な封戸・荘地が施入され,別当や三綱が寺・寺僧の運営指導に当たった。…
…太子は605年(推古13)斑鳩に移り,この地が飛鳥とならんで当代仏教の中心となった。斑鳩には前後三つの法隆寺が存在したと考えられる。在地豪族の膳(かしわで)氏が建立した第1次の寺,太子が建てた第2次の若草伽藍,そしてその再建の第3次の寺である。…
…法隆寺西院伽藍の金堂,塔,中門,回廊が7世紀初めの推古朝創建の建造物であるか,あるいは一度焼亡して再建されたものであるのかについての論争。同伽藍が日本最古の建造物であることから,建築史,美術史,日本史,考古学の諸家によって19世紀末から半世紀にわたって論争された。…
※「法隆寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新