恒吉城跡(読み)つねよしじようあと

日本歴史地名大系 「恒吉城跡」の解説

恒吉城跡
つねよしじようあと

[現在地名]大隅町恒吉

じよう山・日輪にちりん城ともいう。菱田ひしだ川に注ぐ月野つきの川の上流右岸、標高二八一メートルを最高地点とする、北西から南東へ延びるシラス台地の先端を主とする。「三国名勝図会」は当城の最初の城主を、鎌倉期と思われる恒吉大膳亮とするが、確認できない。応永年間(一三九四―一四二八)島津久豊と伊集院頼久が対立した際、島津久豊方の勢力圏内に恒吉がみえ、守護島津氏の御内衆が預かる城であった(山田聖栄自記)。応永一九年一一月二四日鹿屋かのや(現鹿屋市)に拠る鹿屋周防介を救おうとした久豊勢のなかに恒吉衆がいる(同書、「島津国史」)。永享四年(一四三二)頃には守護代島津用久の御内衆山田氏が預かっていたようである。文明六年(一四七四)引続き当城は島津氏の御内城であったが、その領主蓬原ふつはら(現有明町)とともに大寺氏であった(「行脚僧雑録」旧記雑録)。同七年六月一五日山田忠尚(聖栄)島津忠昌から饗宴に招かれている(山田聖栄自記・島津国史)。忠尚は「山田聖栄自記」を残したことでも知られる。

文明一八年岩川いわがわ志布志しぶしの新納忠続領となり、大永三年(一五二三)には合戦のうえ飫肥の領主豊州家島津忠朝領となっているので、恒吉にもその影響が及び、当城は肝付氏・北郷氏・新納氏・島津氏らの争奪の対象となっていった。天文一四年(一五四五)当城主の島津忠親勢が肝付兼続に討たれ(「島津国史」、異年次の説あり)、当城は肝付氏の領有となるが、同一七年当城に拠る肝付勢が北郷忠相に討たれ(本藩人物誌)、当城には忠相方の本田親貞が入ったとされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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