長江村(読み)ながえむら

日本歴史地名大系 「長江村」の解説

長江村
ながえむら

[現在地名]両津市長江

北は加茂かも村、東は釜屋かまや村、南は上横山かみよこやま村、西の後背地は金北きんぽく山を境に現相川あいかわ町・金井かない町と接する。集落は中央を流れる長江川北側台地上の大手おおて下野しもの、南側台地上の岩野いわのにある。北西部山地に三峰みつみね(二五一メートル)がある。貞治五年(一三六六)三月一〇日の源(本間)有直譲状写(本間文書)には「譲渡佐渡国長江村一円」とみえ、雑太本間氏の源有直は、長江村一円を子息本間弥二郎季有に譲っている。雑太本間氏配下の土豪であった長江の名古屋殿は、応永(一三九四―一四二八)頃に独立している(佐渡名勝志)。「佐渡風土記」には「本間信濃守幕下 名古屋源四郎 領分瓜生屋・長江・釜屋」と記し、吉井藍原殿との入会地釜屋の一部を領地としている。


長江村
ながえむら

[現在地名]東郷町長江

門田かどた村の北、東郷池の西方に位置する。大平おおひら山北麓にあたる。当地の北、水下みぞおち(現羽合町)に至る羽合はわい平野と地続きの地域には、条里制にかかわる五ノ坪・六ノ坪などの地名が散見される。天保一四年(一八四三)の長江村田畑地続全図(長江区有)にみえる小字の平均面積は、古代における坪とほぼ同じとされる。また地内には大杭おおぐい石建いしだての地名もみられ、条里地割の基点になったとも推定されている(東郷町誌)。正嘉二年(一二五八)一一月作成の東郷庄下地中分絵図に「一宮領 長江」と記され、伯耆一宮倭文しとり神社領であった。暦応三年(一三四〇)一一月二四日、吉見右兵衛権佐は伯耆国長江・東郷両庄を安堵されている(「足利尊氏安堵状写」吉見家譜)


長江村
ながえむら

[現在地名]大隅町恒吉つねよし

現町域の南西部に位置し、菱田ひしだ川支流の月野つきの川流域に開ける。中世は小河おがわ院恒吉のうちで、恒吉城(日輪城)が築かれた。囎唹そお恒吉郷四ヵ村を束ねる枢要部にあり、東は大谷おおたに村、西は市成いちなり諏訪原すわばら(現輝北町)、南は諸県もろかた大崎おおさき野方のがた(現大崎町)永江村とも記され、恒吉郷の地頭仮屋が置かれた。麓は日輪にちりん城の下、月野川が流れ沿う谷間に形成された。


長江村
ながえむら

[現在地名]磐田市鎌田かまだ

東貝塚ひがしかいづか村の東、磐田原台地の南東端から南の平野部にかけてにある。山名やまな郡に属する。天正一七年(一五八九)七月七日の徳川家七ヵ条定書写(御庫本古文書纂)の宛先にみえる「遠洲中江百姓等」は当地の百姓のことと推定される。正保郷帳には長江村とあり、高四七三石余、幕府領。うち田方二七九石余・畑方五二石余、医王いおう寺領一三五石余、万福寺領・四天王領・妙音みようおん寺領が各二石。


長江村
ながえむら

[現在地名]行橋市長江・泉中央いずみちゆうおう三―四丁目・同八丁目・西泉にしいずみ一―七丁目

崎野さきの村の西に位置し、いま川東岸の沖積平野に立地する。元和八年人畜改帳に村名がみえ、給人三人分の高三六一石余、家数二二・人数五一(うち庄屋一・百姓七・名子等一一)、牛六・馬一。寛永九年(一六三二)の高三五五石余(「仲津郡寛永六年七年八年三ヶ年之御免帳」永青文庫)。郷村高帳では高三六七石余、うち新田高一二石余。旧高旧領取調帳では高三六五石余。定免制施行後の年貢率は三六・五パーセント(嘉永五年仲津郡本田畑御勘定帳)


長江村
ながえむら

[現在地名]設楽町長江

田口町たぐちまち村から伊那街道をはずれて小林こばやし(現東栄町)を経て粟代あわしろ村で海老えび道、別称秋葉あきは道に通ずる道沿いにある。標高九一二メートルの鹿島かしま山北麓の村。田口一〇ヵ村の一。慶長一八年(一六一三)の検地で五六石余を検出。


長江村
ながえむら

[現在地名]宮津市字長江

里波見さとはみ村といわはな村の中間に位置し、海に面する村。

慶長検地郷村帳に一三三・三九石「永江村」とみえるが、延宝三年郷村帳では「長江村」と記される。延宝九年(一六八一)の検地で一二六・一九二石と減高になった(天和元年宮津領村高帳)。漁業はイカ締網から越中網定置にまで乗り出したが、すぐ北に控える伊禰いね(現与謝郡伊根町)の漁師の圧迫を受けて思うように伸びなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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