息浜(読み)おきのはま

日本歴史地名大系 「息浜」の解説

息浜
おきのはま

博多のなかの地名。興浜・沖浜・奥浜・澳浜などとも書く。鎌倉時代から室町時代にかけては「息浜」、戦国時代には「興浜」と書くことが多い。都市博多の北半分に相当し、現在の明治通より北側の市街地部分にあたる。発掘所見によると息浜は砂丘上に位置する。本来は博多の沖にあった砂洲が陸地化し、一二世紀初頭には現呉服ごふく町交差点付近で博多浜とつながっていた。息浜は一一世紀代にはすでに陸地化し墓地が営まれたが、まだ地形的に安定したものではなく、一二世紀代になって人が住み始めたようである。文献的には「蒙古襲来絵詞」にみえるのが早く、同絵詞には息浜で鎧櫃に腰掛けて指揮を取る「日の大将少弐景資の姿が描かれ、文永の役の時に日本軍が当地を固めていた。元寇防塁も築造され、現奈良屋ならや町の博多小学校の敷地から遺構が見つかった。正慶二年(一三三三)当時はすでに御家人菊池氏が宿泊するような宿があり(博多日記)、すでに都市化していたことがうかがわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の息浜の言及

【博多】より

…しかし,1333年(元弘3)の鎮西探題滅亡の際に,博多は戦火にあい,一時荒廃した。33年8月,博多の海岸部である息浜(おきのはま)が建武政権より大友貞宗に与えられ,同地は46年(正平1∥貞和2)室町幕府によって鎮西管領在所に指定された。最近の発掘調査によると,14世紀前半に博多の町割が大きく変化することが明らかになっている。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」