元寇防塁(読み)げんこうぼうるい

共同通信ニュース用語解説 「元寇防塁」の解説

元寇防塁

元寇げんこう防塁 鎌倉時代の1274年、モンゴル帝国(元)と高麗連合軍襲来した「文永の役」の後、再来に備えて現在の福岡市の海岸線に沿って築かれた石積み。総延長は香椎―今津地区の約20キロとされる。築造には九州各地の御家人が動員され、花こう岩砂岩など複数種の石材が使われた。81年、再度の襲来「弘安の役」があり、日本側が退けた。防塁は1931年に史跡指定。現在は埋没などで全体は失われているが、残る部分が保護、復元されている。

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国指定史跡ガイド 「元寇防塁」の解説

げんこうぼうるい【元寇防塁】


福岡県福岡市西区・早良(さわら)区・中央区・東区にある防塁跡。鎌倉時代に北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた石による防御堤。今津地区の毘沙門山と柑子(こうし)岳の間約3.9kmを結ぶように構築された防塁(現存の長さ約2.7km)の大部分が、1931年(昭和6)に国の史跡に指定され、1981年(昭和56)に追加指定があった。「元寇防塁」は、医学部教授でありながら、大正時代に福岡の考古学の発展に貢献した中山平次郎命名で、石築地(いしついじ)が本来の呼び名。たびかさなる通商要求を拒絶した日本に対し、元は1274年(文永11)に第1次遠征(文永の役)を実行。戦いは日本側の防戦一方だったが、戦後の交渉も使者を殺害するなど強硬策で臨んだ鎌倉幕府は、本格的な異国警護に着手し、異国征伐として高麗出兵を計画、平行して石築地を築造させた。総延長は約20kmに及ぶというのが定説で、内部には小石を詰め、陸側に傾斜をもたせて海側を切り立たせている。今津地区(西区)、西新地区(早良区)、地行地区(中央区)、地蔵松原地区(東区)をはじめ、9地区に防塁が残っている。西新元寇防塁へは、JR山陽新幹線ほか博多駅から西鉄バス「防塁前」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

事典・日本の観光資源 「元寇防塁」の解説

元寇防塁

(福岡県福岡市西区・早良区)
福岡県文化百選 歴史散歩編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の元寇防塁の言及

【石築地】より

…文永の役後,再度のモンゴル襲来に備えて,鎌倉幕府の命令により博多湾沿岸一帯に築造された防塁。当時は石築地と称されたが,1913年中山平次郎によって〈元寇防塁(げんこうぼうるい)〉と名付けられてからはこの名称が一般に定着した。その築造は文永の役後の1276年(建治2)3月に開始され,同年8月には一応の完成をみた。…

※「元寇防塁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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