精選版 日本国語大辞典 「博多」の意味・読み・例文・類語
はかた【博多】
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福岡市の那珂川(なかがわ)右岸に位置する九州一の商業中心地区。1972年(昭和47)の政令指定都市発足により設けられた5区の一つでもある。古くは「那津(なのつ)」ともいわれたように『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』で知られる奴国(なこく)の港であったと考えられる歴史の古い場所で、律令(りつりょう)時代には大宰博多津(だざいはかたのつ)という大宰府の外港として栄え、遣隋使(けんずいし)、遣唐使もここから出発した。その後、刀伊(とい)、蒙古(もうこ)の来襲を受けたので鎮西探題(ちんぜいたんだい)が博多に置かれ、博多は大宰府にかわって九州の内政・外交の中心となった。15世紀に入ると大内氏が進出して対明(みん)貿易を推進したため貿易・商業地として発達、日本三津(しん)の一つに数えられるに至った。堺(さかい)と並んで自治権を有した博多商人の基礎が築かれたのはこのころである。その後、戦国時代の戦乱により焼け野原と化したが、1587年(天正15)九州入りした豊臣秀吉(とよとみひでよし)により方10町の町割による博多の復興が着手され、現在の博多地区の原形が完成、ふたたび商人の町として発展を始めた。江戸時代には福岡藩の城下町である福岡と、那珂川を挟んで対峙(たいじ)したが、城下町に組み込まれることになった。
明治に入って1872年(明治5)福岡が第一大区、博多は第二大区となったが、1878年に第一大区に合体され、1889年には福岡市となった。市名は福岡であるが、鉄道の駅、港、人形、織物、俄(にわか)、どんたくなど博多の名を冠したものが多く、市民に親しまれており、区名として残っている。現在の博多区は、博多5町を中心に問屋街が発達するとともに、博多駅が九州最大の駅として発展、周辺地区には官公庁や銀行、商社ビル、ホテルなどが建ち並んで天神地区とともに都心としての機能を備えてきた。北端には博多港の中枢である中央埠頭(ふとう)と、対馬(つしま)、壱岐(いき)、五島(ごとう)、沖縄などへの航路が発着する博多埠頭が、東端には福岡空港があり、福岡県における交通の拠点でもある。福岡空港と博多駅は市営地下鉄で結ばれている。また、埠頭近くにはマリンメッセ福岡、福岡国際センター、福岡国際会議場などが集まっている。北東端にある東公園には、1981年(昭和56)県庁と県警本部が移転し、県行政の中心として発展を始めている。一方、西端に位置する中洲(なかす)は全国的に知られる九州一の歓楽街で人出も多い。見どころとしては板付遺跡(いたづけいせき)(国史跡)に代表される弥生(やよい)遺跡や、住吉(すみよし)神社、櫛田(くしだ)神社、承天(じょうてん)寺、聖福寺(しょうふくじ)(境内は国史跡)、崇福(そうふく)寺、東長(とうちょう)寺、東光(とうこう)院など著名な社寺に富んでおり、どんたく、博多祇園山笠(ぎおんやまがさ)(国の重要無形民俗文化財)、おくんちなどの有名な年中行事とあわせ多数の観光客を集めている。
[石黒正紀]
『村瀬時男編『博多二千年』(1961・以文社)』
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
福岡市を構成する7区の一つ。市のほぼ中央部に位置する。日本最古級の稲作遺跡があり,古代には大宰府の外港として外交上重要な機能をはたした。古代後期~中世に日中・日朝貿易の拠点として日本の対外交渉上重要な役割をはたし,自治都市としても有名。近世初頭に豊臣秀吉の直轄領となり,その後は黒田氏支配下で商業都市として栄えた。1889年(明治22)福岡市の一部となり,1972年(昭和47)博多区が成立。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…このように,いろいろな機会に舶載された唐綾,唐錦,金襴,緞子,印金,羅,紗,繻子,北絹などの裂類は貴顕の人々に珍重愛好され,また多くの人々の染織に対する視野をひろめ,ひいては日本の染織に刺激を与え,その発達に大いに役立ったのである。名物裂
[近世初期]
中世末期から近世初期に隆盛した機業地は,京都のほか山口と博多と堺とがあった。山口は正平年間(1346‐70)に大内弘世が京都にならって町づくりをし,都の文化を導入したことから織物の発達をみたといわれる。…
…織豊政権より江戸幕府初期に至る博多の豪商で,茶人としても有名。幼名善四郎,字は貞清。…
…対朝鮮貿易者には内海各地の港湾の太守・代官や,海賊大将軍を名のった者が朝鮮側の記録に見える。対明貿易の二大根拠地堺と博多は,内海を二分する形で勢力を張り,勘合貿易の実権を争った細川氏と大内氏のそれぞれ配下にあった。
[戦国期]
戦国時代,権力の集中が進行する中で海賊衆も去就を決せざるをえなくなり,1555年(弘治1)の厳島の戦に三島村上氏は毛利氏にみかたし,屋代島以下の島嶼を給与されて毛利氏水軍の色彩を強め,71年(元亀2)能島村上氏が毛利氏に背くと毛利氏は能島を攻撃してこれを破り,82年(天正10)来島氏が織田信長の誘いに応ずると,村上氏は毛利方の能島,因島と信長方の来島とに分裂した。…
…《万葉集》には大伴旅人など大宰府官人の歌を中心に当国に関する歌が多く収められている。対外客館の鴻臚館(こうろかん)は現在の福岡市に置かれたが,9世紀以降は対外貿易の場となり,博多に居留する宋商も少なくなかった。太宰府市では大量の輸入陶磁器や銅銭が発掘されている。…
…中世以降,国内外で活躍した博多の商人。中国,朝鮮,琉球,東南アジア等,海外への窓口であった博多には商人群が形成され,しだいに外国との貿易に従事して,東アジアを舞台に活躍した。…
…1889年市制。1972年政令指定都市となり中央,博多,東,西,南の5区を設置,82年に西区を城南,早良(さわら),西の3区に分けて7区制施行。人口128万4795(1995)。…
…南北朝期になると終始北朝方についた麻生氏に対抗して,南朝方として活躍した。戦国期には大内氏の博多下代官を世襲した山鹿氏がおり,大内氏家臣飯田氏の家人として,大内氏の博多支配を現地で担った。山鹿壱岐守,同弾正忠,同秀宗,同治部丞,同秀康の名が史料に見え,博多に下向した連歌師宗祇,宗碩,遣明使節策彦周良らとの交流が知られている。…
…このようにあらゆる権力の支配,社会の規制から自由であることを社会的に承認されていた楽市場は,中世の自由都市,自治都市成立の原点を占める存在であり,当時十楽(極楽)の津(港)と呼ばれた伊勢桑名は,自治都市として権力の支配を拒否していた。事実,中世の自由都市,自治都市を代表する堺や博多も楽市ないしは楽津と呼ばれる存在であったことは,1587年豊臣秀吉が博多に出した法令が,楽市という言葉はないものの,その内容はまったく保証型楽市令と同じものであったことからも確認される。ところで,このような権力と無縁の存在である楽市場が,その機能を楽市令というかたちで権力に保証されたり,さらに権力によって利用されたりするということは,すでに本来の楽市としての性格を放棄したことを意味する。…
※「博多」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
冬期3カ月の平均気温が平年と比べて高い時が暖冬、低い時が寒冬。暖冬時には、日本付近は南海上の亜熱帯高気圧に覆われて、シベリア高気圧の張り出しが弱い。上層では偏西風が東西流型となり、寒気の南下が阻止され...
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