筑前国の港町(現,福岡市博多区)。
古くは那津(なのつ),那大津(なのおおつ)と呼ばれ,8世紀中ごろから博多と称され,中世には石城(せきじよう),冷泉津とも別称された。当初は大宰博多津として,大宰府の外港的役割をはたした。ここに筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれる外国使節接待のための迎賓館が置かれ,のちに鴻臚館(こうろかん)と称された。鴻臚館は外国使節,渡来人の饗応をつかさどり,遣唐使,入唐僧の宿舎にあてられた。838年(承和5)の派遣を最後に遣唐使が廃止されると,鴻臚館は外交使節,遣唐使の応接機関から外国商人の応接機関へと性格が変化し,来日した商人たちはここで貿易を行った。また博多には博多警固所が置かれていた。11世紀ごろからは宋商人が国内荘園の港津に入港して,荘園領主や荘官と貿易を行ったが,とくに北部九州沿岸の荘園ではこれが顕著で,博多には多くの宋商人が居住して大唐街という中国人街を形成した。1151年(仁平1)には大宰府が筥崎(はこざき),博多の大追捕(だいついぶ)を行い,宋人王昇後家をはじめ1600家の資財物を運びとり,筥崎宮に乱入して正体,神宝物を押し取るという事件がおこった。鎌倉初期には,筥崎宮領の中に宋人御皆免田26町があり,宋人たちは筥崎宮に唐鞍,唐絹などの唐物を上納していた。また,同宮大神殿の四面玉垣は,西崎の領主博多綱首張興,同綱首張英といった宋商人が負担するなど,筥崎宮は宋商と深い関係を有していた。博多からは多くの中国陶磁が出土しているが,なかには〈張綱〉〈丁綱〉と墨書されたものも発見されている。12世紀中期に大宰府を掌握した平氏は,香椎宮,宗像(むなかた)大社といった博多周辺の寺社をも掌握し,対外貿易の拠点として博多に袖の湊(そでのみなと)を築造したといわれている。
鎌倉時代になると,博多には聖福寺(しようふくじ),承天寺などの禅宗寺院が次々に建立され,禅宗をはじめとする宗教文化が栄えた。13世紀後半に2度にわたるモンゴル襲来があり,博多は戦場となった。文永の役(1274)後,再度のモンゴル襲来に備えて石築地(いしついじ)が博多湾沿岸に築造され,その景観から,博多は石城と呼ばれるようになった。また同時に,九州の御家人が博多湾岸を警備する異国警固番役が開始され,さらに永仁年間(1293-99)鎌倉幕府の出先機関鎮西探題がここに設置されると,博多は政治都市としての性格を強く持つようになった。その結果,多くの御家人が番役勤仕(ごんじ)や訴訟のために博多に集まった。しかし,1333年(元弘3)の鎮西探題滅亡の際に,博多は戦火にあい,一時荒廃した。33年8月,博多の海岸部である息浜(おきのはま)が建武政権より大友貞宗に与えられ,同地は46年(正平1・貞和2)室町幕府によって鎮西管領在所に指定された。最近の発掘調査によると,14世紀前半に博多の町割が大きく変化することが明らかになっている。
14世紀後半から15世紀前半にかけて明(みん),朝鮮の建国,日本における南北朝の合一,中山(ちゆうざん)王朝による琉球の統一などにより東アジア世界が安定し,相互の交流が活発になると,博多は海外への窓口として発展する。室町期の九州探題渋川氏は博多に拠点を置いたが,1419年(応永26)の応永の外寇を契機として積極的に朝鮮貿易にのりだし,探題,一族,家臣が頻繁に貿易を行った。その貿易活動を支えたのは,宗金をはじめとする博多商人であった。また渋川氏は,20年の朝鮮通信使宋希璟一行の博多滞在に際して,治安のために博多市街に門を作るなど,博多の都市整備にも尽力している。応永末年に渋川氏が没落すると,大内氏と少弐氏の間で博多支配をめぐる激しい抗争が続いた。15世紀中期には博多は大内教弘によって掌握され,大内氏はここを拠点として日明貿易にのりだした。15世紀後半から16世紀前半にかけて,博多は大内氏の遣明船派遣の拠点となった。いっぽう1429年(永享1)に博多に進出した大友氏は,息浜に田原貞成を派遣して活発に対外貿易を行った。博多商人たちも朝鮮,明,琉球,東南アジアとの貿易に従事し,博多は国際的な商業都市として繁栄し,薩摩の坊津,伊勢の安濃津(津)とともに日本三津と称された。
応仁・文明の乱(1467-77)がおこると,少弐氏が筑前を奪回し,博多の西南4000余戸は少弐氏,東北6000余戸は大友氏の支配下に入った。78年(文明10)には再び大内氏の支配下にはいり,山鹿氏が博多下代官を務めた。その後,大内,大友両氏の間で博多息浜をめぐって確執があり,1538年(天文7)の両氏和平後も大内氏はこれを返還しなかった。16世紀中期の大内氏の滅亡後,博多は大友氏の支配下にはいり,東西に地域区分され,自治的機構を有した。しかし大友氏の筑前支配は安定せず,59年(永禄2)の筑紫氏の反乱,80年(天正8)の肥前竜造寺氏の侵入などによって,博多はたびたび戦火にあい,壊滅的な打撃をうけた。
執筆者:佐伯 弘次
1587年九州平定を終えた豊臣秀吉はたび重なる戦禍で廃墟と化していた博多の復興を命じ,同時に楽市楽座令を発して博多商人の特権を認めた。町割は急速に進められ,離散していた商人も還住して博多はよみがえった。代表的町人は神屋宗湛,島井宗室である。しかし秀吉の博多復興の目的は博多を来るべき朝鮮出兵の兵站基地とすることにあったので,しだいに博多の特権は侵害され,貿易港としての地位も長崎にうばわれた。そして黒田氏入国後は急速に城下町化されていった。町数は1690年(元禄3)で113町あり,九つの〈流(ながれ)〉を構成していた。各町1~2名の町年寄が町内諸般の事をつかさどり,10~20戸で構成する組の組頭がそれを補佐した。博多全体の町政は数人の年行司が担当した。〈流〉の役割には宗旨改などの町政および櫛田神社の祇園会の執行があり,町年寄の中から選ばれた月行司がそれを担当した。藩の町支配には町奉行が当たった。90年の家数は3118軒,人口は1万9468人で,このころが博多の最盛期であった。しかししだいに衰微に向かい,とくに享保の飢饉の影響もあって,1737年(元文2)には1万3469人に激減した。町人の経営が伝統産業にとどまったので,以後幕末まで人口が1万6000人を超えることがなかった。博多の名産としては博多織,博多練酒などがある。博多織は将軍への献上品として織屋が指定され,藩の厳重な統制下におかれた。博多練酒は天下の名酒として名高く,これも毎年将軍に献上された。博多には栄西創建の本邦最初の禅窟といわれる聖福寺のほか数多の寺院があり,仙厓などの名僧を生んだ。聖福寺門前の御供所町(ごくしよまち)辺はもっともよく博多の面影をとどめている。また櫛田神社は博多の鎮守の社として町民の崇敬を集め,その盛大な祇園(山笠)は今に受け継がれている。1873年の人口は2万0985人,89年福岡市となった。いま区名,JR駅名に名をとどめている。
執筆者:野口 喜久雄
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福岡市の那珂川(なかがわ)右岸に位置する九州一の商業中心地区。1972年(昭和47)の政令指定都市発足により設けられた5区の一つでもある。古くは「那津(なのつ)」ともいわれたように『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』で知られる奴国(なこく)の港であったと考えられる歴史の古い場所で、律令(りつりょう)時代には大宰博多津(だざいはかたのつ)という大宰府の外港として栄え、遣隋使(けんずいし)、遣唐使もここから出発した。その後、刀伊(とい)、蒙古(もうこ)の来襲を受けたので鎮西探題(ちんぜいたんだい)が博多に置かれ、博多は大宰府にかわって九州の内政・外交の中心となった。15世紀に入ると大内氏が進出して対明(みん)貿易を推進したため貿易・商業地として発達、日本三津(しん)の一つに数えられるに至った。堺(さかい)と並んで自治権を有した博多商人の基礎が築かれたのはこのころである。その後、戦国時代の戦乱により焼け野原と化したが、1587年(天正15)九州入りした豊臣秀吉(とよとみひでよし)により方10町の町割による博多の復興が着手され、現在の博多地区の原形が完成、ふたたび商人の町として発展を始めた。江戸時代には福岡藩の城下町である福岡と、那珂川を挟んで対峙(たいじ)したが、城下町に組み込まれることになった。
明治に入って1872年(明治5)福岡が第一大区、博多は第二大区となったが、1878年に第一大区に合体され、1889年には福岡市となった。市名は福岡であるが、鉄道の駅、港、人形、織物、俄(にわか)、どんたくなど博多の名を冠したものが多く、市民に親しまれており、区名として残っている。現在の博多区は、博多5町を中心に問屋街が発達するとともに、博多駅が九州最大の駅として発展、周辺地区には官公庁や銀行、商社ビル、ホテルなどが建ち並んで天神地区とともに都心としての機能を備えてきた。北端には博多港の中枢である中央埠頭(ふとう)と、対馬(つしま)、壱岐(いき)、五島(ごとう)、沖縄などへの航路が発着する博多埠頭が、東端には福岡空港があり、福岡県における交通の拠点でもある。福岡空港と博多駅は市営地下鉄で結ばれている。また、埠頭近くにはマリンメッセ福岡、福岡国際センター、福岡国際会議場などが集まっている。北東端にある東公園には、1981年(昭和56)県庁と県警本部が移転し、県行政の中心として発展を始めている。一方、西端に位置する中洲(なかす)は全国的に知られる九州一の歓楽街で人出も多い。見どころとしては板付遺跡(いたづけいせき)(国史跡)に代表される弥生(やよい)遺跡や、住吉(すみよし)神社、櫛田(くしだ)神社、承天(じょうてん)寺、聖福寺(しょうふくじ)(境内は国史跡)、崇福(そうふく)寺、東長(とうちょう)寺、東光(とうこう)院など著名な社寺に富んでおり、どんたく、博多祇園山笠(ぎおんやまがさ)(国の重要無形民俗文化財)、おくんちなどの有名な年中行事とあわせ多数の観光客を集めている。
[石黒正紀]
『村瀬時男編『博多二千年』(1961・以文社)』
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福岡市を構成する7区の一つ。市のほぼ中央部に位置する。日本最古級の稲作遺跡があり,古代には大宰府の外港として外交上重要な機能をはたした。古代後期~中世に日中・日朝貿易の拠点として日本の対外交渉上重要な役割をはたし,自治都市としても有名。近世初頭に豊臣秀吉の直轄領となり,その後は黒田氏支配下で商業都市として栄えた。1889年(明治22)福岡市の一部となり,1972年(昭和47)博多区が成立。
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…このように,いろいろな機会に舶載された唐綾,唐錦,金襴,緞子,印金,羅,紗,繻子,北絹などの裂類は貴顕の人々に珍重愛好され,また多くの人々の染織に対する視野をひろめ,ひいては日本の染織に刺激を与え,その発達に大いに役立ったのである。名物裂
[近世初期]
中世末期から近世初期に隆盛した機業地は,京都のほか山口と博多と堺とがあった。山口は正平年間(1346‐70)に大内弘世が京都にならって町づくりをし,都の文化を導入したことから織物の発達をみたといわれる。…
…織豊政権より江戸幕府初期に至る博多の豪商で,茶人としても有名。幼名善四郎,字は貞清。…
…対朝鮮貿易者には内海各地の港湾の太守・代官や,海賊大将軍を名のった者が朝鮮側の記録に見える。対明貿易の二大根拠地堺と博多は,内海を二分する形で勢力を張り,勘合貿易の実権を争った細川氏と大内氏のそれぞれ配下にあった。
[戦国期]
戦国時代,権力の集中が進行する中で海賊衆も去就を決せざるをえなくなり,1555年(弘治1)の厳島の戦に三島村上氏は毛利氏にみかたし,屋代島以下の島嶼を給与されて毛利氏水軍の色彩を強め,71年(元亀2)能島村上氏が毛利氏に背くと毛利氏は能島を攻撃してこれを破り,82年(天正10)来島氏が織田信長の誘いに応ずると,村上氏は毛利方の能島,因島と信長方の来島とに分裂した。…
…《万葉集》には大伴旅人など大宰府官人の歌を中心に当国に関する歌が多く収められている。対外客館の鴻臚館(こうろかん)は現在の福岡市に置かれたが,9世紀以降は対外貿易の場となり,博多に居留する宋商も少なくなかった。太宰府市では大量の輸入陶磁器や銅銭が発掘されている。…
…中世以降,国内外で活躍した博多の商人。中国,朝鮮,琉球,東南アジア等,海外への窓口であった博多には商人群が形成され,しだいに外国との貿易に従事して,東アジアを舞台に活躍した。…
…1889年市制。1972年政令指定都市となり中央,博多,東,西,南の5区を設置,82年に西区を城南,早良(さわら),西の3区に分けて7区制施行。人口128万4795(1995)。…
…南北朝期になると終始北朝方についた麻生氏に対抗して,南朝方として活躍した。戦国期には大内氏の博多下代官を世襲した山鹿氏がおり,大内氏家臣飯田氏の家人として,大内氏の博多支配を現地で担った。山鹿壱岐守,同弾正忠,同秀宗,同治部丞,同秀康の名が史料に見え,博多に下向した連歌師宗祇,宗碩,遣明使節策彦周良らとの交流が知られている。…
…このようにあらゆる権力の支配,社会の規制から自由であることを社会的に承認されていた楽市場は,中世の自由都市,自治都市成立の原点を占める存在であり,当時十楽(極楽)の津(港)と呼ばれた伊勢桑名は,自治都市として権力の支配を拒否していた。事実,中世の自由都市,自治都市を代表する堺や博多も楽市ないしは楽津と呼ばれる存在であったことは,1587年豊臣秀吉が博多に出した法令が,楽市という言葉はないものの,その内容はまったく保証型楽市令と同じものであったことからも確認される。ところで,このような権力と無縁の存在である楽市場が,その機能を楽市令というかたちで権力に保証されたり,さらに権力によって利用されたりするということは,すでに本来の楽市としての性格を放棄したことを意味する。…
※「博多」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
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