成田新田村(読み)なりたしんでんむら

日本歴史地名大系 「成田新田村」の解説

成田新田村
なりたしんでんむら

[現在地名]三川町成田新田

あか川と大山おおやま川の合流点南に位置。南は尾花おばな村、南東猪子いのこ村。以前中城村または東興屋村があったが、洪水のため移転したともいう(東郷村勢要覧)。村名は開発者の成田兵左衛門(のち京田組大肝煎)にちなむ。万治元年(一六五八)からの新田開発により成立。角田儀右衛門など庄内藩士の助力や、猪子村肝煎八郎右衛門・天神堂てんじんどう村治右衛門など一〇人ほどの農民の協力者や入植者がいた(郷土成田新田のあゆみ)。万治三年の高一一石余、寛文三年(一六六三)の高三三九石余、同一〇年の高六三〇石余(同書)。元禄一二年(一六九九)の庄内領郷村帳(酒井家文書)では高七〇三石余。元治元年(一八六四)の京田組・越石組成箇取帳(斎藤文書)では畑高七七石余、免四ツ五分三厘で川欠け永引四石余。残取米三一九石余で、うち六一俵余が「大豆毎年米御升替」、一一俵余が「役所田地作徳米」として上納された。弍郡詳記では免四ツ五分、家数七七。

用水青竜寺しようりゆうじ青山あおやま堰を利用。開発に際し青山堰より利水するため用水堰二千四三〇余間を開削したが、堰損地の替地などとして青山村へ田地一町七反余、天神堂村へ同一町六反余、猪子村へ秣場四町三反余を譲渡し、尾花村に対しては横土手三八〇間の修繕を引受けた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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