青山村(読み)あおやまむら

日本歴史地名大系 「青山村」の解説

青山村
あおやまむら

[現在地名]三川町青山

あか川と青竜寺しようりゆうじ川の合流点付近に位置し、赤川を隔て東は押切新田おしきりしんでん村枝郷の三本木さんぼんぎ村、西は善阿弥ぜんなみ村。赤川沿いの自然堤防上に立地。村名は前九年の役のとき出羽守源斉頼がぎよくがん寺に宿営した折、付近一帯が繁茂した森となっていたことから名付けられたとも、後三年の役のときに源義家が常陸国の式内社青山神社(現茨城県東茨城郡常北町)に戦勝祈願し、平定後同社の分霊を勧請したことにちなむともいう(東郷村勢要覧)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高七二八石余。寛永元年庄内高辻帳では高一千一四一石余。弍郡詳記では家数六六、免五ツ五分五厘。最上氏時代の元和五年の年貢受取状(鶴岡市郷土資料館蔵)によれば、納入済二四一石余のほかに未納分一一八石余があり、二二人の身売りによって皆済することが命じられている。同九年の中台式右衛門発給の年貢皆済状(阿部文書)では取米四二二石余(免五ツ八分)、居屋敷分二石余で、一六石余は大豆・油荏・胡麻で代納された。なお「筆濃余理」は当村を中台氏の知行地とみているが、検討の余地がある。慶安二年(一六四九)の成箇納方目録(羽根田文書)では四二石余の永引分があり、年貢は口米とも六一三石余で、そのうち二二石余が大豆納、一四石余は「御荒子ニ而納」、八石余が「未進御かし次」であった。


青山村
あおやまむら

[現在地名]我孫子市青山台あおやまだい一―四丁目・青山・日の出ひので北新田きたしんでん

利根川右岸の洪積台地上、柴崎しばさき村の北東にあり、水戸道沿いに集落が営まれる。北部から東部にかけて蛇行した利根川がめぐり、西は利根川の流作場。「和名抄」に記す相馬そうま意部おふ郷に由来する地名とする説がある。正和元年(一三一二)銘の阿弥陀三尊板碑がある。元和二年(一六一六)旗本本多領になったとされるが(倉科家文書)、寛永二年(一六二五)知行宛行状に村名がみえ、高一五石余が旗本建部領。同じく「柴崎・壱分・大山三ケ村」の一一〇石が同興津領となっており、大山とも表記されていた。また同年本多氏知行として一〇〇石が確認できる(倉科家文書)。天和二年(一六八二)には本多・建部に稲垣・筒井・中根を加えた五氏の相給となっている(「利根川猟場出入訴状」後藤家文書)


青山村
あおやまむら

[現在地名]津久井町青山

東は長竹ながたけ村、西は仙洞寺せんとうじ山を境に青野原あおのはら鳥屋とやの両村、南は愛甲あいこう半原はんばら(現愛川町)みや(現清川村)の両村、北は中野なかの両村に接する。大永四年(一五二四)一二月九日内藤大和入道寄進状(県史三)によると「青山之村内桜野光明寺菜薗之地六百六十四文之所」が光明こうみよう寺へ寄進されている。小田原衆所領役帳の「青山之村」に「拾弐貫七百五十文 井上杢助、一貫弐百五拾文 同左京進、五貫五百文 所々神領」とある。

近世は初め幕府直轄領、一部が寛永三年(一六二六)まで小田原北条氏の遺臣井出領、寛文四年(一六六四)久世(のち下総関宿藩)領、貞享元年(一六八四)幕府直轄領、文政一一年(一八二八)小田原藩領となる。


青山村
あおやまむら

[現在地名]姫路市青山一―六丁目・青山北あおやまきた一―三丁目・青山西あおやまにし一―五丁目・青山南あおやまみなみ一―四丁目・青山・西夢前台にしゆめさきだい一―三丁目

飾西しきさい郡に所属。夢前川と菅生すごう川の合流点西岸に位置し、北は飾西村など。対岸の下手野しもての村からの山陽道は、当村から青山峠(山田峠)を越えて揖東いつとう山田やまだ(現太子町)に向かう。天文一二年(一五四三)九月一八日の赤松晴政院領安堵状(松岡家蔵書写山文書)によると、赤松晴政は書写山の末寺とされる明王院に「青山村之内宗恵寺分」を安堵している。永禄一二年(一五六九)九月二四日、赤松義祐は書写山十地じゆうじ坊・十妙じゆうみよう院領として青山村の散在田二町を安堵した(「赤松義祐坊領安堵状案」同文書)


青山村
あおやまむら

[現在地名]世羅町青山

田打とうち村の東に位置し、大田おおた(現芦田川)の支流青山川の谷あいに開けた農村。耕地は北向きに開けた甲山こうざん盆地の南端部に位置し棚田状に展開する。西部から南東部にかけては標高四七〇メートルから五〇〇メートルほどの山山が連なり、青山寺せいざんじ谷・槙迫まきがさこ谷・ヒラキ谷を形成し、青山寺谷の西に飛郷がある。集落は山沿いにみられる。南の若菜わかなたお(若永峠)を経て三原往還(現県道三原―東城線)が通じる。

山地には多くの古墳があり、字大迫おおさこの大迫第四号古墳からは装飾付壺・子持脚台坏が出土。


青山村
あおやまむら

[現在地名]小川町青山

つき川を挟んで小川村の南に位置し、南は日影ひかげ(現玉川村)玉川たまがわ領に属した(風土記稿)。田園簿では田高二五五石余・畑高二二〇石余、ほかに紙舟役永一貫三〇〇文が課せられ、幕府領元禄郷帳では高七二四石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本四氏の相給、ほかに円城えんじよう寺領があった。「風土記稿」成立時にも同じく旗本四氏の相給。検地は寛文八年(一六六八)に行われた(同書)。文化一四年(一八一七)には高七二〇石余、反別は一〇四町九反余、家数二二〇・人数一千一四、うち一〇八軒で紙漉を行っており、前出紙舟役のほかに紙売出役銭一〇二文を納めていた(「村書之控」横川家文書)


青山村
あおやまむら

[現在地名]豊山町青山

豊場とよば村の北にあり、村の中央を東北から西南へ大山おおやま川が流れている。青山の地名は正応元年(一二八八)の西大寺文書に「尾張国青山庄」として見える。康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」に「青山」とみえ、天正一一年(一五八三)の織田信雄判物(生駒家文書)にも「青山」とみえる。織田信雄分限帳には、

<資料は省略されています>

とあり、青山郷となっている。寛文一一年(一六七一)には家数五二、男二六七人・女二五四人(寛文覚書)で、「徇行記」によれば田は八六町二反一畝余、畑は二四町八反余で、概高一千七六七石余のうち七四四石余が藩士七人の給知。


青山村
あおやまむら

[現在地名]愛東町青山

愛知川右岸、小倉おぐら村の西に位置する。中世は鯰江なまずえ庄の一部と推定される。集落の北背後の愛知川河岸段丘上に青山城跡があり、中世に小倉氏の一族で、京極氏家臣の青山氏が在城したと伝え、京極氏滅亡後青山氏は織田信長に仕えたといわれる。天正(一五七三―九二)末から慶長五年(一六〇〇)にかけては豊臣氏の支配下で、天正一一年八月一日の羽柴秀吉知行宛行状(小倉文書)に「八拾弐石青山」とみえ、小倉鍋に宛行われている。同一二年一一月一〇日の羽柴秀吉宛行状(同文書)に「あを山の内」とみえ、同人宛にとの村・青山村のうち四〇〇石が宛行われている。


青山村
あおやまむら

[現在地名]下総町青山

倉水くらみず村の北に位置する。中世は神崎こうざき庄に属し、正元二年(一二六〇)三月一〇日の左衛門尉師時配分状(神崎神社文書)に神崎大明神領田三六町・畠四町九段の内として「青山分 壱町壱段 畠三段 供僧屋敷壱ケ所」とみえる。師時は千葉介常胤の孫師胤の子(千葉大系図)。承応二年(一六五三)成井なるい村と名小屋なごや村の野論についての手形(成井区有文書)に村名がみえる。「寛文朱印留」では高岡藩領で、同藩領のまま幕末に至る。


青山村
あおやまむら

[現在地名]中之条町青山

伊勢いせ町の東にあり、南村境を吾妻川が東流する。万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写では高七七石余。寛文郷帳では田方一〇石余・畑方六六石余。貞享二年(一六八五)の沼田藩領再検地控では一九九石余、元禄一一年(一六九八)旗本保科領となった。延享二年(一七四五)の秣渡船出入裁許請書(谷文書)によると、当村は東南の市城いちしろ村とともに榛名はるな山を入会地とし吾妻川を渡って秣薪を伐っていたが、仮橋の流失により市城村の対岸新巻あらまき(現東村)に船渡しをしたため、新巻村につけられた新道の是非をめぐって相論が起きている。


青山村
あおやまむら

[現在地名]八鹿町青山

宿南しゆくなみ村の西方、円山まるやま川に注ぐ支谷の上流山間にある。古くは宿南村のうちであったが、正保四年(一六四七)の検地までに村切され、一村になったという。近世の領主の変遷は上網場かみなんば村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)では宿南村高一千一八石余に含まれて高付されていたと思われる。


青山村
あおやまむら

[現在地名]長岡市青山町

長岡町の南南西約一里、信濃川右岸近くにあり、青島あおしま村枝郷で三島さんとう郡に属する。南西は前島まえじま村に隣接し、北に往来路をたどれば水梨みずなし村に至る。天正村名考(温古之栞)に「青田十三軒」とあるのは当村のことという。


青山村
あおやまむら

[現在地名]大洋村青山

北浦の東岸段丘上にあり、東は台濁沢だいにごりさわ村。室町末期に中居氏の所領となるが、天正一九年(一五九一)佐竹氏の南下に伴い一族の東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「二百六十八石二斗二升 青山」とある。江戸初期に旗本領となり、寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、村高は四〇八石余で、三橋・高木両氏が支配した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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