インドの仏教学者、唯識(ゆいしき)の学匠。サンスクリット名をシーラバドラŚīlabhadraという。若くして護法(ごほう)の弟子となり、護法示寂ののち、ナーランダー学園の最高指導者として、長く学園を統率した。著書は伝わらないが、学風は護法の正系を継いだとみられ、伝説的に、法相(ほっそう)大乗を最高とする三時教判をたてて、無相(むそう)大乗を最高とする中観(ちゅうがん)派の智光(ちこう)と論争したといわれる。なお、玄奘(げんじょう)はインドに渡って戒賢と出会い(当時、戒賢は106歳であったという)、唯識、因明(いんみょう)などを親しく学び、帰国後、これを中国に伝えて法相宗を開いた。
[竹村牧男 2016年11月18日]
…南インドのドラビダ国に大臣の子として生まれたが,王の娘との結婚式の夕べに出家した。〈唯識思想〉を究めて,ナーランダー寺に入り,ここで戒賢(シーラバドラŚīlabhadra)や最勝子など多くの弟子を育成した。また,従来の諸学説を検討,集大成して新しい唯識説を提唱した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」