仏教の術語。サンスクリット語でビジュニャプティ・マートラターvijñapti-mātratā。ビジュニャプティvijñaptiはわれわれの認識(ビジュニャーナvijñāna)の表象をいう。マートラmātraは「ただ」「のみ」を表し、-tāは抽象名詞をつくる接尾辞である。したがって唯識とは、自己およびこの世界の諸事物はわれわれの認識の表象にすぎず、認識以外の事物の実在しないことをいう。『十地経(じゅうじきょう)』に「この三界は心よりなるものにすぎない」といわれるようにである。われわれに認識されている世界は自己の認識の内なるものであり、他方、自己の認識の外にあるものをわれわれは知ることができないのであるから、世界とは自己の認識の世界にほかならない。インド仏教四大学派の一つである瑜伽行(ゆがぎょう)派(あるいは唯識学派。中国・日本では法相(ほっそう)宗とよばれる)はかかる主観的観念論哲学を説いた。
仏教では説一切有部(せついっさいうぶ)(サルバースティバーディンsarvāstivādin。中国・日本では倶舎(くしゃ)宗)が実在論の哲学を主張した。この学派は、同一の瞬間に並存する外界の対象と感覚器官と意識との接触が認識にほかならない、という素朴実在論あるいは模写説に近い立場をとった。それに対し経量部(きょうりょうぶ)(サウトラーンティカsautrāntika)は、外界の対象そのものはわれわれに知覚されない、という。認識とは外界の対象Xが原因となって、一瞬後にわれわれの心中にある知覚像を生じる、という継時的な因果関係である、とする。したがって、真の認識の対象とは、外界の事物そのものXではなくて、われわれの心中の知覚像(表象)であり、心中の主観(能取(のうしゅ))がその表象を対象(所取(しょしゅ))として把握することが認識にほかならないと主張した。外界の対象Xそのものは心中の知覚という結果から推理される原因ではあるが、それ自体はけっして知覚されない。この経量部の立場は批判的実在論あるいは表象主義的認識論ということができる。これに対し唯識学派は、経量部のように外界の対象Xを認識の原因として要請する必要はないという。現在の知覚の原因は、一瞬間前のわれわれ自身の意識のなかにあった同種の知覚像であると考えれば、両者の間に因果関係としての認識は可能となり、外界はそれにまったく関与しない。こうして唯識学派は外界の存在を必要としないで、意識の流れのみから世界の顕現を説明する認識論を確立した。経量部は、外界の対象がまったく存在しなければ、個々の認識を時間的・空間的その他の特殊相に限定する原理がなくなるではないか、と反論するが、唯識学派は、ちょうど夢中の認識は、外界の対象をもたないけれども、時間・空間の限定をもち、夢精のような効用をももつと答論し、万法唯識の理論を完成した。なお、世親(せしん)の『唯識二十論』と『唯識三十頌(じゅ)』はそれぞれ22と30の韻文で唯識説の大綱をまとめたものである。
[梶山雄一]
『梶山雄一著『仏教における存在と知識』(1983・紀伊國屋書店)』
大乗仏教の一大学派,唯識瑜伽行派(ゆいしきゆがぎょうは)の重要な教説。一切の存在はただ(唯)心のはたらき(識)のつくり出した表れにすぎず,真実にあるものではない(非有)という考え方で,あらゆる存在を生み出す根底にアーラヤ識(阿頼耶識)を設定する。この識のなかに過去の業(ごう)の影響が種子(しゅうじ)として蓄えられ,これから現在,未来にわたって自己の心身と外的な自然界が生まれる。この識の汚れた種子を滅して清浄な種子で満たすために瑜伽行というヨーガ的な瞑想(めいそう)法を実践する。3~4世紀のインドでマイトレーヤ(弥勒(みろく)),アサンガ(無著(むじゃく)),ヴァスバンドゥ(世親)の三大論師によって体系化され,その伝統は中国の玄奘(げんじょう),慈恩大師基,日本の南都北嶺の法相宗(ほっそうしゅう)に連なる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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