戸田氏鉄(読み)とだうじかね

改訂新版 世界大百科事典 「戸田氏鉄」の意味・わかりやすい解説

戸田氏鉄 (とだうじかね)
生没年:1576-1655(天正4-明暦1)

江戸初期の大名近江膳所(ぜぜ),摂津尼崎藩主から,1635年(寛永12)大垣藩10万石に移封され,51年(慶安4)致仕。大垣藩主時代,地方知行(じかたちぎよう)制から俸禄制への移行,走り百姓禁止などの農民政策,1300石余の新田開発勧農政策の推進,夫役代米納制の確立,山林保護・治水施策など,大垣藩体制確立の基礎を築いた。また1637年には老中松平信綱とともに,3000余の藩兵を率いて島原の乱鎮圧に出陣した。
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朝日日本歴史人物事典 「戸田氏鉄」の解説

戸田氏鉄

没年:明暦1.2.14(1655.3.21)
生年:天正4(1576)
江戸初期の大名。美濃国(岐阜県)大垣藩の初代藩主。父は近江(滋賀県)膳所城主一西,母は真木氏常の娘。三河国二連木(愛知県豊橋市)生まれ。新二郎,左門,采女正。号は常閑。天正17(1589)年ごろより徳川家康に仕え,慶長5(1600)年の関ケ原の戦では,東軍に参加。7年父の遺領膳所藩を継いだ。元和2(1616)年7月摂津尼崎藩5万石へ移封。次いで寛永12(1635)年には,美濃大垣藩10万石へ移封された。14年の島原の乱では,松平信綱と共に出陣し乱の鎮定に当たった。慶安4(1651)年に致仕。大垣城死去。新田開発を奨励して藩政の基礎をかため,文教の振興にも貢献し,美濃文化の基礎を築いた人物といわれる。<著作>『八道集』(大垣市立図書館蔵)

(長谷川成一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「戸田氏鉄」の解説

戸田氏鉄 とだ-うじかね

1576-1655 江戸時代前期の大名。
天正(てんしょう)4年生まれ。戸田一西(かずあき)の長男。父の跡をついで近江(おうみ)(滋賀県)膳所(ぜぜ)藩主となり,摂津尼崎(あまがさき)藩(兵庫県)藩主をへて,寛永12年美濃(みの)(岐阜県)大垣藩主戸田家初代。10万石。14年島原の乱に松平信綱(のぶつな)とともに出陣。承応(じょうおう)4年2月14日死去。80歳。三河(愛知県)出身。初名は重氏。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の戸田氏鉄の言及

【大垣藩】より

…美濃国大垣に藩庁を置いた譜代中藩。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦に際して大垣城をめぐる攻防は戦局に大きな影響を与え,大坂方は,岐阜城落城後一時大垣城を中心にして徳川方勢と一戦交える作戦をたてたとされる。その大垣城が関ヶ原の戦で徳川方に帰属し,翌年上総国鳴渡から石川康通が入部して5万石を領するに及んで大垣藩は成立した。その後領主の交替はめまぐるしく,大坂夏の陣の翌年の16年(元和2)石川氏は豊後国日田へかわって下総国関宿から松平忠良が入部。…

【摂津国】より

…ついで内藤信正を高槻に入れ(4万石),翌16年(元和2)には忠明の婿稲葉紀通を中島に封じた(4万5700石)。ついで17年には戸田氏鉄(うじかね)を尼崎(5万石)に,そして播磨には,小笠原忠真を明石に,本多忠政を姫路に,同政朝を竜野に入れ,大坂の西方摂津,播磨を譜代大名で固める方策を進めた。さらに17年に尼崎築城,高槻城修築,18年に播磨明石築城,姫路城西ノ丸諸櫓の構築を命じて,大坂の守りの一翼とした。…

【戸田氏】より

…近世大名。正親町三条(おおぎまちさんじよう)家の支流ともいわれ,中世三河国の大族,戸田宗光より出る。宗光嫡流の康長は徳川家康から松平姓を賜り,所々に封じられて最後は信濃国松本城主となる(7万石)。その子の康直は播磨国明石城主に,次の光重は美濃国加納城主に,孫の光熙(みつひろ)は山城国淀城主に転封され,次の光慈(みつちか)は志摩国鳥羽城主,ついで1725年(享保10)に松本城主に移されて,以後明治に至った(松本藩)。…

※「戸田氏鉄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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