戸頭村(読み)とがしらむら

日本歴史地名大系 「戸頭村」の解説

戸頭村
とがしらむら

[現在地名]取手市戸頭など

北相馬台地南縁に位置し、南は利根川、東は米野井こめのい村。古代・中世には相馬御厨のうちで、相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図(島津家文書)などによれば胤綱から次女に伝領され、次女は中原親員に嫁している。当村は甥親致の子親秀に伝えられたらしく、建武五年(一三三八)の足利尊氏御判御教書(士林証文)に、

<資料は省略されています>

とある。当村は近江国柏木御厨と交換されて足利尊氏の領地となり、観応三年(一三五二)の足利尊氏寄進状(香取神宮文書)によれば尊氏から下総一宮香取神宮に寄進され、至徳二年(一三八五)および同四年に大禰宜長房から子息まんしゅ丸に譲与された(大禰宜長房譲状)

戸頭村
とがしらむら

[現在地名]白根市戸頭

なかくち川右岸に沿って立地し、北は白根村、南は東萱場ひがしかやば村に接する。村の中央に位置する真宗大谷派長願ちようがん寺は天文一二年(一五四三)僧順誓の開基といい、村の開発もこの年からという。慶長三年(一五九八)以降近世を通じて新発田藩領。同年頃の御領内高付帳(新発田市史資料)には「五百三拾四石三斗九升 戸頭村」、同一七年の御蔵納同払方帳(同書)に「百六拾石 戸頭村」とある。元和六年(一六二〇)溝口宣勝の当村三郎右衛門に宛てた判物(溝口家文書)によれば、同人に「永荒之内五反遣之」し開作を命じており、また同九年の判物(同文書)には「走百姓もよひ返し並牢人百姓も入置成次第可致開作候」とあり、逃散による村内の荒田畑の開発が浪人百姓を召し抱えて進められている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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