取手市(読み)トリデシ

デジタル大辞泉 「取手市」の意味・読み・例文・類語

とりで‐し【取手市】

取手

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日本歴史地名大系 「取手市」の解説

取手市
とりでし

面積:三六・八四平方キロ

県南部に位置し、市域の大部分は利根川北岸に所在。東は小貝こかい川を隔て龍ケ崎市・北相馬郡利根町、北は同郡藤代ふじしろ町および小貝川を隔て筑波郡伊奈村、西は北相馬郡守谷もりや町、南は利根川を挟んで千葉県かしわ市・我孫子あびこ市。関東ローム層に覆われた洪積台地の北相馬台地を中心とし、低湿地を挟んだ東部に独立丘陵(小文間地区)がある。西部は複雑に入組んだヤツ田と台地からなり、台地の南を利根川が流れ、市域東南端で小貝川と合流している。

〔原始・古代〕

市北西部の北相馬台地上、大字貝塚かいづか付近一帯には縄文前期とされる上高井かみたかい貝塚などがあり、海岸から遠く離れた貝塚として早くから知られていた。また南部の台宿だいしゆく二丁目には縄文中期に属する台宿貝塚、東南部の大字小文間おもんまには中妻なかづま貝塚、北西部の大字上高井には神明しんめい貝塚があり、縄文後期または晩期と考えられている。

古墳は北西端の大字市之代いちのだいに市之代古墳群、小文間に宗四郎坂そうしろうざか古墳が確認されている。二、三の古墳が発掘されているが、特別な副葬品も出土せず、小規模な古墳がほとんどであり、大豪族がこの地方を支配したとは考えられない。沼沢地や河川が多く、洪積台地が中心となるこの地方では、大豪族に成長しうる基盤もなく、開墾された肥沃な土地もきわめて少なかったといえよう。

奈良時代・平安時代の様子は不明な点が多いが、市内およびその周辺には平将門に関する数多くの伝説が残されている。将門の母は県犬飼春枝の娘で、春枝は大字寺田てらだ付近に住んでいたといい、八幡社はその鎮守であったという。また大字こめには桔梗姫伝説も残り、桔梗ききよう塚が現存する。しかし「将門記」など当時の史料には当市に関連する内容が記されておらず、俗説と考えるべきであろう。

〔中世〕

古代に成立した相馬御厨は市域のほとんどをその中に含んでいたと思われ(北相馬郡の→相馬御厨、その後、御厨をめぐって千葉氏・源義朝・佐竹氏などが支配権を争ったが、治承四年(一一八〇)源頼朝が佐竹氏を攻撃することによって、千葉常胤がその支配権を回復したものらしい。常胤の次男師常が相馬御厨を相続して相馬氏を名乗り始める。一三世紀中頃、相馬胤綱の次女は戸頭とがしら村を相続し、鎌倉幕府の官僚中原親員に嫁したらしい。その後、戸頭村は親員の一族に相続されたが、建武五年(一三三八)足利尊氏の所領となっている。観応三年(一三五二)戸頭村は尊氏から現千葉県佐原さわら市の香取神宮へ寄進されたことが確認できる。


取手市
とりでし

2005年3月28日:取手市が北相馬郡藤代町を編入
【藤代町】茨城県:北相馬郡
【取手市】茨城県

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「取手市」の意味・わかりやすい解説

取手〔市〕
とりで

茨城県南部,利根川の中流部北岸にある市。利根川を挟んで千葉県に対する。 1955年取手町と小文間村,寺原村,稲戸井村の3村および高井村の一部が合体して,1970年市制。 2005年藤代町を編入。江戸時代,水戸街道の利根川渡しの宿場として繁栄。 1935年の大利根橋開通後は国道6号線によって東京と直結。 1949年に国鉄常磐線が取手まで電化されてから急速に都市化が進んだ。住宅団地が建設されるなど,東京の近郊住宅都市としての色彩を強める。電器製品,ビール醸造などの工場が進出して工業化も著しい。国の重要文化財に竜禅寺三仏堂がある。 JR常磐線が通るほか,関東鉄道常総線,国道 294号線の起点ともなっている。面積 69.94km2。人口 10万4524(2020)。

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