日本歴史地名大系 「摩文仁間切」の解説 摩文仁間切まぶいまぎり 沖縄県:沖縄島南部糸満市摩文仁間切現糸満市の南部にあたる。北は真壁(まかび)間切、東は具志頭(ぐしちやん)間切、西は喜屋武(ちやん)間切と接し、南は海に臨む。島尻方一五間切の一。里積記によると首里城から米須(くみし)村間切番所まで四里三合四勺六才(二里一二町余)。嘉靖二五年(一五四六)八月の首里城の添継御門之北之碑文に奉行麻勃尼主司麻三郎、同南の碑文には「まふにの里主ま三ら」とみえる。慶長一八年(一六一三)一二月一五日摩文仁(親方安恒)が島尻金城(しまじりかにぐすく)間切中城(なかぐすく)村・加賀寿(かかじ)村(現糸満市)、豊見城(とうみぐすく)間切「はひら村」(現同上)・我那覇(がなふあ)村(現豊見城市)、はへ原(ばる)間切兼城(かにぐしく)村(現南風原町)、中城(なかぐしく)間切「つは村」(現中城村)、普天間(ふていま)村(現宜野湾市)の高六〇〇石を宛行われている(「知行目録」南島風土記)。正保国絵図には「摩父仁間切(まぶにまぎり)」とあるが、元禄国絵図調進の際に摩文仁間切に改めた(元禄一四年「琉球国沖縄島変地其外相改目録」)。絵図郷村帳や琉球国高究帳、寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳などには摩文仁間切と記される。絵図郷村帳に当間切に属する石原(いさら)・米次(くみし)・「おど」・摩文仁の四ヵ村がみえる。のちの間切境の変更により真壁間切から喜名(ちなー)(喜納)村を入れ、波比良(はんじや)(波平)村と改称、伊礼(いりー)村を新設する。「琉球国由来記」には摩文仁・小渡(うどう)・米次・石原・伊礼・波比良の六ヵ村がみえる。のちに米次村を米須村と改称した。正保国絵図によると高五八三石余。琉球国高究帳、寛文の琉球国郷帳でも同高で、うち田一三九石余・畠四四三石余(琉球国郷帳ではうち桑役一二石余)。正保国絵図や正保三年絵図帳写では豊見城間切・兼城間切を南下した島尻方西海道が島尻大里間切の「あいけな島」(エージナ島)を迂回し、「こはくら村」を経て喜屋武間切で東に折れて当間切へと続き、更に具志頭間切・玉城(たまぐすく)間切へと続く。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by