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敷根村(読み)しきねむら

日本歴史地名大系 「敷根村」の解説

敷根村
しきねむら

[現在地名]国分市敷根

下井したい村の東、検校けんこう川の河口左岸に位置し、南は海(鹿児島湾)に面する。敷祢とも書いた。近世には敷根郷に属し、同郷の麓が置かれたため、ふもと村ともよばれた。また浜沿いには浦町(敷根浦)も形成されていた。日向筋が通る。中世には小河おがわ院のうちであった。当地を名字の地とする敷根氏は清和源氏の末流土岐四郎左衛門国房が元暦元年(一一八四)敷根を領して敷根氏を称し、地内の長尾ながお(敷根城)に拠って一帯に勢力を振るったという。国房はその後一時肥後国球磨くま(人吉)に移ったが、国房の子頼房の代に再び敷根に帰ったとされる(「国分郷土誌」など)。建久九年(一一九八)三月一二日の大隅御家人注進状写(隼人桑幡家文書)では宮方(大隅正八幡宮)御家人として敷根次郎延包の名がみえる。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)では小河院のうちに「敷根十二丁」とある。上井富福丸の解謝馬毛付日記(旧記雑録)によると富福丸は文和三年(一三五四)八月一三日「敷祢仮屋于時道乗之家」において解謝馬の毛付を終えている。永和四年(一三七八)三月五日、今川了俊は当地に関する入野氏(今川氏一族か)の主張を認め、とりあえず一ヵ所を与えると約束している(「今川了俊書状案」禰寝文書)

応永一八年(一四一一)総州家島津氏と伊集院頼久とが結んで奥州家島津久豊(義天)と争った折、「敷根」は久豊方であった(「島津義天譜」旧記雑録)。永享三年(一四三一)三月日の大隅国留守所下文写(調所氏家譜)には小河院内の寺田として「門蔵一町廿疋」がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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