朝日日本歴史人物事典 「斎藤妙椿」の解説
斎藤妙椿
生年:応永18(1411)
室町時代の武将。美濃国(岐阜県)守護土岐成頼の守護代。利永の子とも弟ともいうが,弟説が有力。妙椿は法号で実名は不明。利永の死により,54歳のとき家督と美濃守護代の地位を継ぐ。応仁の乱(1467~77)では西軍(山名宗全方)に属した成頼の留守を預かり,富島氏,長江氏ら東軍勢(細川勝元方)を討って美濃を制圧する一方,多くの荘園を押領して守護成頼を凌駕する勢力を築く。文明4(1472)年には六角氏救援のため近江に出兵,同5年には伊勢に出兵し,長野氏を助けて梅津城を攻略,同6年越前に出兵して甲斐氏と朝倉氏の戦いを調停,同7年再び近江に出兵,同10年織田伊勢守に加勢して尾張に出兵するなど,その軍事力は周辺の国々にも行使され,また,書状をもって飛騨の姉小路氏と三木氏との戦いを調停したり,足利義教三十三回忌法要を美濃で営んだりもした。応仁の乱終結後,成頼が足利義視・義材父子を美濃に伴ったのも,妙椿の意思によるものであった。このような妙椿の政治・軍事・経済力については,「無双の福貴,権威の者なり」(『晴富宿禰記』),「東西の運不は持是院(妙椿)の進退によるべし」(『大乗寺社雑事記』),「この者,一乱中種々張行」(『長興宿禰記』)などといわれている。文芸も好んで一条兼良とも親交があり,押領した東常縁の所領を和歌の贈答によって返還した逸話は有名。文明11年2月,可児郡明智へ引退,翌年腫れ物を患って病没した。
(谷口研語)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報