守護の職務を代行する役人。一般に官職を当人の身代りとして行使する者を代官と呼ぶが,武家の世界では古く平安時代より,一族・従者の中からしかるべき者が代官となる慣行ができていた。守護代もその一形態であるが,鎌倉幕府草創から戦国時代に至るまで,一大武士が数ヵ国の守護を兼ねる例があり,またそうでなくとも守護正員(せいいん)は戦闘や上洛・参府ないし同地での居住などにより在国しないことが多く,加えて現地への支配を代官によって浸透させようともしたから,守護の職権全般を代行する守護代は守護にとって一貫して不可欠な存在であった。守護代は以上の点から当該国守護所に常駐してその実務を遂行するのが通例であったが,例えば北条氏のように守護正員が幕府要人で守護代もその股肱(ここう)として在京・在府するというばあいは,又代官(まただいかん)が派遣され実務を代行した。なお,守護代は守護の職務全般の代行者であるから,個々の問題に即して現地に派遣される守護使とは区別された存在である。
以上をふまえて次に守護代の歴史的沿革をたどると,まず鎌倉幕府草創期の守護設置の当初から,数国を領したり,または追討・大番役勤仕で不在の守護正員に代わって管国を預かる守護代は広く見いだされ,1232年(貞永1)成立の《御成敗式目》によれば,そのころには郡郷ごとに守護代を設置するという傾向さえ顕著になっていた。幕府はこれに対し,守護代の数を各国1人と式目で制限し,守護が多数の守護代を擁して国司を凌駕するような実権をもった独立の行政官に成長しないよう統制した。しかしこの時代の守護代は,一般に守護の職務の忠実な代行者であり,守護正員は上述のように管国に常住しないケースが多かったにもかかわらず,守護代の離反や反逆は少なく,守護のあり方を揺さぶるような構造的大問題とはならなかった。
しかし,南北朝を境にして諸国の地域的統合の要求が強まるなかで守護が国衙・荘園の行政権一般を広く吸収し,幕府からも相対的に自立した存在になってくると,職務全般を事実上担う守護代の権限もしだいに強大になり,守護正員と異なる独自の意志をもって管国を動かし,独自の被官を擁して正員と対立し,ときには恣意的に守護代を自称する者が現れるような状況さえ生じてきた。幕府と守護はこれに対し,守護代への就任に幕府の認可を条件づけるなどによって,この自専と逸脱に歯止めをかけようとしたが,それは上の状況の下ではかえって守護代に正員に比す権威と正当性を与える効果をもたらし,幕府への祗候や将軍への謁見も許される者として扱われるようになっていった。室町中期の15世紀半ば以降農村構造の変化と地方都市の発達の下で,守護に旧来の国衙・荘園的諸権限をこえた現地の実情を内在的に組織する体制が求められるようになると,守護自身がこれに対応しきれず,その下で守護代が積極的対応に成功し守護を倒して主人の座を握るものが現れるようになった。戦国大名の中にはこのようにして成立したものが少なからず存在するが,そのようにして覇権を得た大名はやがて自己の再転覆を恐れて守護代をやめ,より権限の制約された城代・奉行等に置き換える方向をとるようになったため,全面的な身代りとしての守護代の歴史的生命は終末を迎えた。
→守護
執筆者:義江 彰夫
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中世守護の私的な代官。守護の一族や譜代直臣(ふだいじきしん)、あるいは有力国人(こくじん)、国衙目代(こくがもくだい)などが登用された。中世の守護は鎌倉や京都に在住するのが原則で、任国の統治は守護代以下に担われていた。守護領国制展開の現実の担い手も彼らであった。幕命遵行(じゅんぎょう)手続の一環に位置した点では公的性格も随伴していたといえる。しかし畿内(きない)・近国で細川・畠山(はたけやま)氏などの守護代となった長塩(ながしお)・薬師寺(やくしじ)氏や遊佐(ゆさ)・神保(じんぼ)氏などは非国人で、ほとんど在京していたため、郡単位の小守護代が在地支配の中核となった。有力国人の守護代登用は播磨(はりま)の浦上(うらがみ)氏、近江(おうみ)の伊庭(いば)氏などと多く、また武蔵(むさし)の大石氏、播磨の小河(こかわ)氏などは目代や在庁(ざいちょう)有力者の守護代の例である。越前朝倉(えちぜんあさくら)氏、越後長尾(えちごながお)氏などのように戦国大名化するものもあった。
[田沼 睦]
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中世に守護の代官として任国で政務をつかさどった武士。鎌倉時代から存在するが,活躍がめだつのは室町時代。室町時代の守護は,多くが京都や鎌倉に駐留し,任国の政務は守護代が行ったが,守護とともに在京する守護代もいた。守護の一族や外様(とざま)の武士が任命されることもあったが,守護の重臣がこの職につくことが多く,世襲化して勢力を伸ばした。畠山氏の下にいた遊佐(ゆさ)氏,斯波氏の家臣の甲斐氏,上杉氏の守護代の越後国長尾氏などが著名。守護の命をうけて下地遵行(したじじゅんぎょう)などに関与し,国内の紛争解決の実質的な主導者であった。越後国長尾氏のように守護家を凌駕して戦国大名になった家もある。
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…鎌倉時代の武家の職名で,本官の代理の職すなわち代官をさす言葉として用いられた。多く守護代・地頭代の別称として用い,その耳目に代わる意から,国司の目代(もくだい)と区別するために眼代とよばれた。《武家名目抄》には〈眼代を目代といふに同しく人の耳目に代るのこころなり。…
…鎌倉時代の守護領として伝統的な有勢国衙在庁の所領・所職が代々継承されていることは,若狭国守護が国衙在庁稲葉権守時定跡の税所職とそれに付随する広大な今富名,国府近辺の国衙領,要港小浜等の諸浦を領有した事例などにもみられる。藤原親実のあと再び安芸守護に任ぜられた武田氏は,守護=在国司体制を継承するとともに,在庁福島氏を被官化して守護代に任じるなど国衙在庁の個別的掌握をも強め,それを室町幕府下においても維持し,国内支配に有効に作用させた。 室町幕府新任の守護は,播磨赤松氏のように国内に勢力をはる地頭系領主,周防大内氏のような国衙在庁系領主,任国に基盤を有していなかった足利氏一門などその出自に差異はあるが,国衙機構を掌握して国の唯一の支配者になるなかで,鎌倉時代の守護所領をある程度継承し,勲功の賞,敵方闕所(けつしよ)地,半済(はんぜい),押領等によってそれを拡大強化していった。…
…これは,地頭の在地支配が鎌倉時代の中ごろ以降,村落の在地世界にふかく食い込み,その共同体機能を強力に把握するようになったことの現れであった。 このほか,やはり鎌倉御家人である守護の代官に守護代がある。守護は本来,鎌倉将軍の手先となって,全国の御家人を一国ごとに統轄する役割を任じられていたが,鎌倉時代も早いころから,在地の武士を自己の代官(守護代)に任じて,その国を自己の勢力下におく傾向を現しはじめた。…
※「守護代」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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