デジタル大辞泉
「新内流し」の意味・読み・例文・類語
しんない‐ながし【新内流し】
二人一組で、2挺の三味線を弾き合わせながら街頭を歩き、客の求めに応じて新内節を語って聞かせるもの。また、その芸人。《季 夏》
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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新内流し【しんないながし】
新内節の演奏形態の一つ。新内は浄瑠璃の中でも早くから歌舞伎を離れ,遊廓(ゆうかく)の音楽となったが,化政期ころに太夫と三味線ひきの2人が1組となって街頭をゆっくり歩きながら演奏する方法が行われ始めた。三味線は〈流しの三味線〉と呼ばれる特殊な旋律を奏し,請われた時は座敷または戸外でも演奏した。現在ではほとんど行われない。
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新内流し
しんないながし
新内節芸人の営業形態の一種。顧客を求めて遊里や飲食街の街頭を演奏しながら歩く。2人一組。太夫は地の三味線,三味線方が高音 (たかね) を奏する。歩行中は節を語らず,流し専用の三味線の手を奏する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の新内流しの言及
【新内節】より
…浄瑠璃の流派名。安永(1772‐81)の末ごろに生まれた江戸浄瑠璃。[豊後節](ぶんごぶし)の一派で,鶴賀若歳(つるがわかとし)改め2世[鶴賀新内]の残した名称。それ以前の同系統の富士松,鶴賀,豊島らの節も含み,また後年富士松魯中(ろちゆう)の称した富士松浄瑠璃も,現在では新内節に含めている。
[歴史]
享保(1716‐36)の末ごろ,上方から江戸に下った宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじよう)にしたがった宮古路加賀太夫は,1745年(延享2)に師家を去って独立,富士松薩摩(翌年[富士松薩摩掾]を受領)と名のり52年(宝暦2)まで劇場に出演し,57年に没した。…
※「新内流し」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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