精選版 日本国語大辞典 「新内節」の意味・読み・例文・類語
しんない‐ぶし【新内節】
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浄瑠璃(じょうるり)の流派名。豊後節(ぶんごぶし)系列に属し、江戸で生まれた。その名称は鶴賀若歳(つるがわかとし)改め鶴賀新内の残したもの。したがって同系統の富士松節、鶴賀節、豊島節、後年の岡本節、花園節、さらに富士松魯中(ろちゅう)が唱えた富士松浄瑠璃も、今日ではすべて「新内節」の名称で総括される。
[林喜代弘・守谷幸則]
享保(きょうほう)(1716~36)の末年ごろ、豊後節の始祖宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)とともに上方(かみがた)から江戸へ下った門弟の富士松加賀太夫(かがたゆう)(1686―1757)は、師の没後の1745年(延享2)富士松薩摩(さつま)と改名(翌年薩摩掾を受領(ずりょう))して富士松節の一流をたて、52年(宝暦2)まで劇場に出勤して没した。この薩摩掾の加賀太夫時代からのワキ語りに佐賀太夫(生没年未詳)と敦賀(つるが)太夫(1717―86)があり、前者は豊島国太夫を名のって分派したが、1代で終わった。一方、敦賀太夫(初名加賀八)は1751年(宝暦1)に独立し、朝日若狭掾(わかさのじょう)を受領してまもなく鶴賀若狭掾源義正と改め、一派を樹立した。しかし、初世常磐津文字太夫(ときわずもじたゆう)の劇場進出をもくろむ敏腕に押され、58年には若狭掾は座敷浄瑠璃専門に転向することになったが、この劇場最後の出演(森田座)でワキを勤めたのが初名新内改め加賀八太夫(1714―74)である。そして、加賀八太夫の門人で盲人の若歳がのちに新内(2世)と改名、特異な美声が好評を博して、新内節の呼称を残すことになる。この若狭掾・新内らの鶴賀派では、巷間(こうかん)の心中事件を取り上げて一段にまとめあげた端物(はもの)と称する作品を逐次発表、舞踊の間拍子(まびょうし)にこだわらず語物本来の味を生かして語り、とりわけ眼目のクドキ地ではことさら扇情的な曲節を強調し、そのため庶民階級に迎えられて大いにもてはやされた。当時の代表曲に『蘭蝶(らんちょう)』『明烏(あけがらす)』『伊太八(いだはち)』があり、現今も流行している。
文化・文政(ぶんかぶんせい)期(1804~30)から天保(てんぽう)期(1830~44)にかけては、二つの大きな動きが目だつ。一つは、聴衆の嗜好(しこう)がとかく単調になりがちな端物に飽き足らず、筋立てのこみいった義太夫節(ぎだゆうぶし)を喜ぶ風潮から、その流行曲の一部を転用して曲節をも取り入れることを意欲的に行った。これは若狭掾の娘初世鶴吉と、その娘の2世鶴吉の家元時代のことである。もう一つは、2世鶴吉の子で鶴賀派4代にあたる初世鶴賀若狭太夫や、加賀歳(かがとし)新内(3世鶴賀新内)らが中村座ほかへ出勤して、舞踊地の伴奏を勤め、新内舞踊が行われるようになったことである。曲節のほうも、大間な三味線を縫って声調にさまざまな装飾を施したり、地の三味線の単調さを補うために、上調子(うわぢょうし)の技法も複雑におもしろく用いるようになった。これはいずれもこのころから流行してきた女(むすめ)新内の「新内流し」によるものと推定される。
天保期の末期、鶴賀派の逸材鶴賀加賀八太夫(1797―1861)が中絶していた富士松派を再興し、富士松加賀太夫(のち魯中(ろちゅう))を名のり、革新の気概に燃え、安政(あんせい)年間(1854~60)に渋く品のよい多数の作品(『夕霧』『膝栗毛(ひざくりげ)』『佐倉宗吾』『真夢(まさゆめ)』など)を発表し、新内界に清新の気を送り込んだ。また同じころ、初期富士松系の吾妻路(あづまじ)富士太夫こと後の花園宇治太夫(1791?―1862)が江戸三座に出勤したが、一時期の活躍に終わった。魯中の子、5世加賀太夫(1855―92)は明治初期に『高橋お伝』『花井お梅』の新作を手がけたが若くして没した。この5世を育成したのが魯中の高弟で盲人の富士松紫朝(しちょう)(1827―1902)で、三味線の名手とうたわれ、魯中の作曲面でのよき協力者であった。鶴賀系の柳家柴朝(しちょう)(紫朝)もこの人に学んで明治~大正期に独自の芸風を築いた。
明治に入ると、鶴賀派は1891年(明治24)5世家元の2世若狭太夫没後血脈が絶え、翌年築地(つきじ)魚市場頭の鈴木重太郎が社中から推されて家元となり、6世新内(のち祖元)を名のり、現在まで11代を数える。一方、富士松派は5世加賀太夫没後、2世魯中を襲名したその兄が6世家元となって加賀太夫を名のり、7世加賀太夫(1856―1930)は5世の門人富士太夫が継いだ。その天性の美声は明治末期から大正期にかけて広く称揚されたが、このときに富士松派は正派と本派に分裂、さらに後年、両派から多くの分派が生まれた。岡本文弥(ぶんや)(1895―1996)は、文化年間に若歳新内から分かれた岡本宮古太夫の家系を、1923年(大正12)に富士松加賀路太夫から改名して再興したものである。岡本文弥は従来の新内曲に加え、1930年(昭和5)ころより『西部戦線異常なし』などを発表、「赤い新内」「左翼新内」とよばれ評判をとった。現在、仲間内の公認と称する派は27を数え、1959年(昭和34)には新内協会の成立もあり、邦楽界のなかでも活況を呈している。
[林喜代弘・守谷幸則]
新内節は、端物形式が基本的形態であり、とりわけ、曲の主眼であるクドキの部分が他流に比して嫋婉(じょうえん)えんえんと続く。その冒頭部分によく用いられるウレイガカリという哀愁の曲節は、クドキに移ると一段と凄艶(せいえん)さを増すウレイという旋律型になる。新内節はほとんど芝居の所作事地(舞踊劇の伴奏)として用いられなかったため、形式上の発展がなく、初期の簡素な数種の旋律型の反復にとどまったが、時代の移行とともに悲愁をいや増す独得の発声法へと一段とくふうが凝らされた。また、本調子の地の三味線の単調さを補うための二上り調の替手風の上調子は、文化・文政期に始まったといわれる「流し」のためにさらに奏法に技巧が施されて、高音(たかね)とよばれた。2人1組の二挺(ちょう)三味線で街頭をゆっくり歩きながら奏する新内流しの「流しの三味線」は、通常は太夫が地、三味線弾きは高音を受け持つ。これには、(1)普通の手(無名)、(2)中甲(ちゅうかん)、(3)大甲(だいかん)の3種があり、歌舞伎(かぶき)の下座(げざ)音楽にも取り入れられて、『切られ与三(よさ)』の源氏店(げんじだな)の場や、下町や廓(くるわ)の夜ふけの情景描写に用いられる。また新内の前弾(まえびき)は1曲ごとに作曲されるものでなく、違った気分をもつ、いくつかの既存の前弾を適宜流用する。一般的なものとしては、第三弦の中甲のつぼから弾き出す「中甲」があり、ほかに「江戸」「鈴虫」「彦三(ひこさん)」などがある。
[林喜代弘・守谷幸則]
『『藤根道雄遺稿集』(1974・同書刊行会)』
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豊後節系浄瑠璃の一つ。初世富士松薩摩掾(さつまのじょう)が始めた富士松節を受け継いだ弟子,鶴賀新内の語り口が人気を博し,新内節とよばれるようになった。18世紀後半のこととされる。作品には,義太夫節の詞章をとりいれた段物(だんもの)と新内独自の題材による端物(はもの)がある。新内節らしい音楽の特徴は端物に現れ,絞りだすような喉をつめた発声法で,高音域の声を中心に多くのポルタメント(滑らかな音の移り)を駆使した口説きの切々とした語りは,豊後節の特徴をよく受け継いでいるといわれる。三味線は中棹(ちゅうざお)2挺,本調子と上調子(うわじょうし)の編成。上調子は,棹に竹の細い棒(枷(かせ))をとりつけて弦の長さを短くし,楽器の音域を変更している。門付(かどづけ)のための新内流しでは,爪楊枝(つまようじ)(現在は象牙製)の小撥(こばち)を使い,細々とした音色で独特な哀調を弾きだしている。
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…新内節の太夫,作曲家。(1)初世(1714‐74∥正徳4‐安永3) 湯方御家人,本名岡田五郎次郎。…
…新内節富士松派の演奏家。(1)初世(1827‐1902∥文政10‐明治35) 本名佐藤竹次郎。…
…文弥節を吸収したのは義太夫節で,《伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)》の〈政岡忠義の段〉の,〈忠と教える親鳥の〉は文弥節,《絵本太功記》十段目の〈涙に誠あらわせり〉は文弥オトシである。そのほか,山本角太夫(かくだゆう)の角太夫節も影響を受け,一中節も文弥の泣き節をとり入れたといわれ,新内節で使われるウレヒは,阿波太夫の影響といわれる。文弥節は義太夫の流行もあって,宝永(1704‐11)ころから急に衰退した。…
…新内節の演奏家。柴朝とも書く。…
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