日本歴史地名大系 「新所東方村」の解説 新所東方村しんじよひがしかたむら 静岡県:湖西市新所東方村[現在地名]湖西市新所原(しんじよはら)三丁目・新所原東(しんじよはらひがし)・新所(しんじよ)・新所岡崎梅田入会地(しんじよおかさきうめだにゆうかいち)岡崎村の北東、浜名湖に半島状に突き出た丘陵の先端にあり、東と南は湖に面し、北は内(うち)浦の入江。西は新所西方村。中世は新所郷に含まれていた。江戸時代は初め新所西方村とともに新所村と称したが、正保年間(一六四四―四八)以後に新所東方村・新所西方村に分れた(遠江国風土記伝)。一説では分村は慶長一七年(一六一二)という(「新所東西両村分離年次覚」鈴木家文書)。領主の変遷は鷲津(わしづ)村と同じ。正保郷帳には新所村とあり、田方七六九石余・畑方二三七石余、ほかに女河(めがわ)八幡宮領四石余・神明宮領三石・法泉(ほうせん)寺領二石・曹洞宗岩松(がんしよう)寺領一石余。天和元年(一六八一)の新所東方村年貢皆済目録(伊藤家文書)が残る。元禄郷帳では高七六八石余。元禄一一年(一六九八)の年貢割付状(新所区有文書)によると高七二一石余、年貢率六ツ六分余、洲押・潮入・当検見引計九石余。天保一二年(一八四一)の旗本松平氏御知行村々手留(浜松市立中央図書館蔵)によると船役・漁猟船役・鉄砲役があり、家数一五九(うち二〇石以上二・一〇石以上五)・人数六三九、新居(あらい)宿(現新居町)の定助郷を勤めていた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by