方県郡
かたがたぐん
「和名抄」東急本国郡部の訓注に「加多加多」とある。近世の郡域は現長良川より北を流れた長良古川筋を南限とし、濃尾平野の縁辺部を占める。北は山県郡、西は本巣郡・席田郡、南は厚見郡に接し、郡域すべて現岐阜市北部に含まれる。明治三〇年(一八九七)稲葉郡・本巣郡・山県郡の一部となり、郡名は消滅した。
〔古代〕
郡名の起源を潟県とし、山県とともに大化前代の美濃県の地とする説もあるが、十分な説得力はない。「和名抄」高山寺本は五郷、東急本は駅家郷を加えて六郷を記し、諸本とも訓を欠く。なお思淡郷は天平二〇年(七四八)四月二五日の写書所解(正倉院文書)では志淡思につくる。また「日本霊異記」下巻(女人、石を産生みて神とし斎く縁)には水野郷楠見村がみえる。これら諸郷は大略現岐阜市北部一帯に比定しうる。「延喜式」神名帳に方県津神社・若江神社がみえる。郡の名の初見は、文献上では「日本書紀」斉明天皇六年(六六〇)一〇月条で、「百済の佐平鬼室福信、佐平貴智等を遣し来たりて唐の俘一百余人を献る。今美濃国の不破・片県、二郡の唐人等なり」とある。「和名抄」大唐郷の起源をうかがわせる記事である。古文書では大宝二年(七〇二)の御野国肩県郡肩々里戸籍(正倉院文書)が最初である。これによれば、大化前代の本巣国造(美濃国造)の子孫と目される国造氏が有力で、とくに奴婢五九人を含む九六人の戸口をもつ国造大庭の戸は、御野国戸籍のなかで最大の戸である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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