山科言継(読み)やましなときつぐ

精選版 日本国語大辞典 「山科言継」の意味・読み・例文・類語

やましな‐ときつぐ【山科言継】

室町後期の公卿。言綱の子。権大納言山科家内蔵寮(くらりょう)長官となる家柄で、皇室財政の衰微を救おうと奔走した。また有職故実にも通じた。日記「言継卿記」、家集「権大納言言継卿集」がある。永正四~天正七年(一五〇七‐七九

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デジタル大辞泉 「山科言継」の意味・読み・例文・類語

やましな‐ときつぐ【山科言継】

[1507~1579]室町後期の公卿。有職故実に通じ、また、皇室財政維持のため奔走。日記に「言継卿記」がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「山科言継」の意味・わかりやすい解説

山科言継 (やましなときつぐ)
生没年:1507-79(永正4-天正7)

戦国時代の公卿。内蔵頭(くらのかみ)山科言綱(ときつな)の子として京都に出生。母は身分の低い女官。10歳で三条西公条(きみえだ)の加冠により元服。13歳で早くも従五位下,内蔵頭に叙せられ,1533年(天文2)ころ葉室氏の女と結婚。37年従三位,次いで左中将,左兵衛督,参議兼左衛門督,加賀権守を歴任し,44年権中納言,次いで陸奥出羽按察使(あぜち),大宰権帥を兼ね,69年(永禄12)異例の正二位・権大納言に昇る。また29年(享禄2)より衣紋,装束の有職(ゆうそく)を沙汰し,31年よりは楽奉行として朝廷の雅楽を管掌している。詩歌史書,故実など和漢の学にも励み,《公卿補任》の転写や《歴名土代(れきみようどだい)》の編纂などは彼の業績である。また内蔵寮を管理して朝廷の供御(くご)に腐心し,窮乏化する禁裏経済を双肩に担って戦国大名の間を献金調達に奔走した。副業として庶民に医薬を施療し,京都の町衆に音曲,舞踊を指導,祇園会や風流(ふりゆう)など庶民文化にも貢献した。生涯清貧に甘んじ,蚊帳を入質して家計をしのいだ話は有名。その日記《言継卿記》は戦国末期の畿内を知る最重要史料
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山科言継」の意味・わかりやすい解説

山科言継
やましなときつぐ
(1507―1579)

室町後期の公卿(くぎょう)。言綱(ときつな)の子。1520年(永正17)内蔵頭(くらのかみ)。累進して正(しょう)二位権大納言(ごんだいなごん)。有職故実(ゆうそくこじつ)に通じ、天皇の装束と衣紋(えもん)の着用を勤める。また併任の御厨子所別当(みずしどころべっとう)として宮廷の御物(ごもつ)の保管、天皇の衣服の調製、天皇の膳部(ぜんぶ)の調進をつかさどり、戦国時代には、皇室領などから宮廷の用米と用金を調達した。宮廷の臨時費をくめんするため、伊勢(いせ)の国司北畠具教(きたばたけとものり)に説き、また尾張(おわり)の織田信長の斡旋(あっせん)で、三河の徳川家康に献金させた。戦国の激動期に天皇の下問によく答えた。文学や本草(ほんぞう)学にかなりの教養をもち、町衆(まちしゅう)の踊りの唱歌をつくった。日記に『言継卿記』がある。法名花岳院日岑照言。墓は京都市上京区華開院(けかいいん)。

[奥野高広]

『奥野高広著『言継卿記』(1947・高桐書院)』『今谷明著『言継卿記』(1980・そしえて)』

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朝日日本歴史人物事典 「山科言継」の解説

山科言継

没年:天正7.3.2(1579.3.28)
生年:永正4.4.26(1507.6.6)
戦国時代の公卿。法名は昭言,道号は月岑。父は山科言綱,実母は女嬬で,養母は中御門宣胤の娘。永正17(1520)年元服して内蔵頭となり,天文6(1537)年従三位,同7年参議,同13年に権中納言,永禄12(1569)年には山科家ではじめて権大納言となり,天正2(1574)年に正二位となった。山科家世襲の内蔵頭の職掌上,朝廷に御服を調進し,高倉家と共に衣紋道を家職として公家装束の着装を行い,朝廷の楽奉行,和歌御会奉行も務めた。また,医薬の専門知識を持っており,知人や近所の町衆などに診察,投薬を行っている。天文2年には尾張(愛知県)に下向して飛鳥井雅綱と共に蹴鞠,和歌を織田氏の一族や家臣に伝授し,弘治2(1556)年に養母を訪ねて駿河(静岡県)府中に下向し,今川義元とその家臣たちと交流している。窮乏化する朝廷の経済を支えるために,永禄1(1558)年伊勢の北畠具教,具房に朝廷への30貫文の献上を要請,同12年には岐阜の織田信長を訪れ,三河の徳川家康ともども後奈良天皇十三回忌の法会の費用200貫文を献上させた。信長上洛(1568)などの記事もある言継の日記の『言継卿記』(1527~76)は重要史料であり,言継の庶民的な性格が表れているといえる。また,『公卿補任』などの書写を行い,四・五位の補任一覧である『歴名土代』を編集した。墓は京都の清浄華院にある。<参考文献>奥野高広『言継卿記/転換期の貴族生活』

(伊東正子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山科言継」の意味・わかりやすい解説

山科言継
やましなときつぐ

[生]永正4(1507).4.26. 京都
[没]天正7(1579).3.2. 京都
戦国時代の公卿。言綱の子。永正 17 (1520) 年元服,同時に内蔵頭 (くらのかみ) となり,天文6 (37) 年従三位,同 17年正二位,永禄 12 (69) 年権大納言となった。 1915年従一位を追贈されているが,これは言継が内蔵頭と御厨子所 (みずしどころ) 別当として,戦国時代,非常な困難に直面していた皇室経済の維持に尽力したことによる。音楽,故実などに通じ,日記『言継卿記』は,当時の重要史料とされている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「山科言継」の解説

山科言継
やましなときつぐ

1507.4.26~79.3.2

戦国期の公卿。父は言綱(ときつな),母は内侍司に属した女嬬(にょじゅ)。1537年(天文6)従三位。衰微をきわめた朝廷経済のため奔走し,58年(永禄元)後奈良天皇没後の服喪期間終了儀式費用調達のため,伊勢国司北畠具教(とものり)のもとへ下ったほか,69年には徳川家康・織田信長に朝廷費用調達を依頼した。同年山科家としてはじめて権大納言に任じられた。日記「言継卿記」は戦国期公家研究の重要史料。

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百科事典マイペディア 「山科言継」の意味・わかりやすい解説

山科言継【やましなときつぐ】

戦国時代の公卿(くぎょう)。言綱の子。内蔵頭(くらのかみ),権(ごん)大納言。約60年間宮廷に仕え,皇室経済の維持に尽力。その日記《言継卿記》は1527年から1576年までに及び,戦国時代研究の好史料。
→関連項目八風街道

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山科言継」の解説

山科言継 やましな-ときつぐ

1507-1579 戦国-織豊時代の公卿(くぎょう)。
永正(えいしょう)4年4月26日生まれ。山科言綱(ときつな)の子。永禄(えいろく)12年山科家ではじめて権(ごんの)大納言にすすむ。正二位。戦国武将から献金をつのり,衰微した朝廷経済のたてなおしにつとめた。また有職(ゆうそく)故実,医薬に通じた。日記に「言継卿記」がある。天正(てんしょう)7年3月2日死去。73歳。法名は照言。

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旺文社日本史事典 三訂版 「山科言継」の解説

山科言継
やましなときつぐ

1507〜79
戦国・安土桃山時代の公卿
権大納言。後奈良・正親町 (おおぎまち) 両天皇に仕え,皇室経済の維持につとめる。日記『言継卿記』は戦国時代の公家生活を知るのに貴重な史料。

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367日誕生日大事典 「山科言継」の解説

山科言継 (やましなときつぐ)

生年月日:1507年4月26日
戦国時代;安土桃山時代の公卿
1579年没

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世界大百科事典(旧版)内の山科言継の言及

【公卿補任】より

…ただ現存最古の写本(平安末~鎌倉初期写)である九条家旧蔵本《公卿補任》は,各人の出自・略歴等を死去または出家の条に記載するなど,現在の形と異なる点があり,室町時代までは多少異同のある数本が存したらしい。室町末期,山科言継が諸本によって書写集成し,その子言経がそれに書き継いで48冊本が成立すると,この山科本がもっとも世に流布して転写され,年々書き足されていった。《国史大系》本も,この系統に属する宮内庁書陵部蔵御系譜掛本60冊を底本とし,諸本によって校訂増補したものである。…

【言継卿記】より

…戦国時代の日記。筆者は権大納言山科言継で,途中欠失を含むが,1527‐76年(大永7‐天正4)にわたる。原本37冊が残存し,大部分が東大史料編纂所蔵。…

【山科家】より

…藤原北家房前(ふささき)の男魚名の後裔で,四条家の支流に当たる。すなわち四条中納言家成の六男権中納言実教(さねのり)(1150‐1227)を祖とする。後白河法皇の寵妃丹後局(高階栄子)の子教成(のりしげ)(1177‐1239)は法皇の信任が厚く,勅旨により四条実教の嗣子となり,丹後局の山科の別業を譲られ,子孫は同所に住んだが,南北朝時代の中ごろ,教行のときから地名にちなんで山科を姓とするようになった。…

※「山科言継」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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