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山科言継 やましな ときつぐ

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美術人名辞典の解説

山科言継

公卿。言綱の男、権大納言正二位、一字名仙、兼て和歌を好くす、その著『言継卿記』は当時四囲の事情を詳に記せる好資料なり。贈従一位。天正7年(1579)歿、73才。

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デジタル大辞泉の解説

やましな‐ときつぐ【山科言継】

[1507~1579]室町後期の公卿。有職故実に通じ、また、皇室財政維持のため奔走。日記に「言継卿記」がある。

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百科事典マイペディアの解説

山科言継【やましなときつぐ】

戦国時代の公卿(くぎょう)。言綱の子。内蔵頭(くらのかみ),権(ごん)大納言。約60年間宮廷に仕え,皇室経済の維持に尽力。その日記《言継卿記》は1527年から1576年までに及び,戦国時代研究の好史料。
→関連項目八風街道

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

山科言継 やましな-ときつぐ

1507-1579 戦国-織豊時代の公卿(くぎょう)。
永正(えいしょう)4年4月26日生まれ。山科言綱(ときつな)の子。永禄(えいろく)12年山科家ではじめて権(ごんの)大納言にすすむ。正二位。戦国武将から献金をつのり,衰微した朝廷経済のたてなおしにつとめた。また有職(ゆうそく)故実,医薬に通じた。日記に「言継卿記」がある。天正(てんしょう)7年3月2日死去。73歳。法名は照言。

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朝日日本歴史人物事典の解説

山科言継

没年:天正7.3.2(1579.3.28)
生年:永正4.4.26(1507.6.6)
戦国時代の公卿。法名は昭言,道号は月岑。父は山科言綱,実母は女嬬で,養母は中御門宣胤の娘。永正17(1520)年元服して内蔵頭となり,天文6(1537)年従三位,同7年参議,同13年に権中納言,永禄12(1569)年には山科家ではじめて権大納言となり,天正2(1574)年に正二位となった。山科家世襲の内蔵頭の職掌上,朝廷に御服を調進し,高倉家と共に衣紋道を家職として公家装束の着装を行い,朝廷の楽奉行,和歌御会奉行も務めた。また,医薬の専門知識を持っており,知人や近所の町衆などに診察,投薬を行っている。天文2年には尾張(愛知県)に下向して飛鳥井雅綱と共に蹴鞠,和歌を織田氏の一族や家臣に伝授し,弘治2(1556)年に養母を訪ねて駿河(静岡県)府中に下向し,今川義元とその家臣たちと交流している。窮乏化する朝廷の経済を支えるために,永禄1(1558)年伊勢の北畠具教,具房に朝廷への30貫文の献上を要請,同12年には岐阜の織田信長を訪れ,三河の徳川家康ともども後奈良天皇十三回忌の法会の費用200貫文を献上させた。信長上洛(1568)などの記事もある言継の日記の『言継卿記』(1527~76)は重要史料であり,言継の庶民的な性格が表れているといえる。また,『公卿補任』などの書写を行い,四・五位の補任一覧である『歴名土代』を編集した。墓は京都の清浄華院にある。<参考文献>奥野高広『言継卿記/転換期の貴族生活』

(伊東正子)

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世界大百科事典 第2版の解説

やましなときつぐ【山科言継】

1507‐79(永正4‐天正7)
戦国時代の公卿。内蔵頭(くらのかみ)山科言綱(ときつな)の子として京都に出生。母は身分の低い女官。10歳で三条西公条(きみえだ)の加冠により元服。13歳で早くも従五位下,内蔵頭に叙せられ,1533年(天文2)ころ葉室氏の女と結婚。37年従三位,次いで左中将,左兵衛督,参議兼左衛門督,加賀権守を歴任し,44年権中納言,次いで陸奥出羽按察使(あぜち),大宰権帥を兼ね,69年(永禄12)異例の正二位・権大納言に昇る。

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大辞林 第三版の解説

やましなときつぐ【山科言継】

1507~1579) 室町末期の廷臣。権大納言。有職故実に通じ、また内蔵頭と御厨子所別当として当時の皇室経済に尽力。日記「言継卿記」がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

山科言継
やましなときつぐ

[生]永正4(1507).4.26. 京都
[没]天正7(1579).3.2. 京都
戦国時代の公卿。言綱の子。永正 17 (1520) 年元服,同時に内蔵頭 (くらのかみ) となり,天文6 (37) 年従三位,同 17年正二位,永禄 12 (69) 年権大納言となった。 1915年従一位を追贈されているが,これは言継が内蔵頭と御厨子所 (みずしどころ) 別当として,戦国時代,非常な困難に直面していた皇室経済の維持に尽力したことによる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

山科言継
やましなときつぐ
(1507―1579)

室町後期の公卿(くぎょう)。言綱(ときつな)の子。1520年(永正17)内蔵頭(くらのかみ)。累進して正(しょう)二位権大納言(ごんだいなごん)。有職故実(ゆうそくこじつ)に通じ、天皇の装束と衣紋(えもん)の着用を勤める。また併任の御厨子所別当(みずしどころべっとう)として宮廷の御物(ごもつ)の保管、天皇の衣服の調製、天皇の膳部(ぜんぶ)の調進をつかさどり、戦国時代には、皇室領などから宮廷の用米と用金を調達した。宮廷の臨時費をくめんするため、伊勢(いせ)の国司北畠具教(きたばたけとものり)に説き、また尾張(おわり)の織田信長の斡旋(あっせん)で、三河の徳川家康に献金させた。戦国の激動期に天皇の下問によく答えた。文学や本草(ほんぞう)学にかなりの教養をもち、町衆(まちしゅう)の踊りの唱歌をつくった。日記に『言継卿記』がある。法名花岳院日岑照言。墓は京都市上京区華開院(けかいいん)[奥野高広]
『奥野高広著『言継卿記』(1947・高桐書院) ▽今谷明著『言継卿記』(1980・そしえて)』

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世界大百科事典内の山科言継の言及

【公卿補任】より

…ただ現存最古の写本(平安末~鎌倉初期写)である九条家旧蔵本《公卿補任》は,各人の出自・略歴等を死去または出家の条に記載するなど,現在の形と異なる点があり,室町時代までは多少異同のある数本が存したらしい。室町末期,山科言継が諸本によって書写集成し,その子言経がそれに書き継いで48冊本が成立すると,この山科本がもっとも世に流布して転写され,年々書き足されていった。《国史大系》本も,この系統に属する宮内庁書陵部蔵御系譜掛本60冊を底本とし,諸本によって校訂増補したものである。…

【言継卿記】より

…戦国時代の日記。筆者は権大納言山科言継で,途中欠失を含むが,1527‐76年(大永7‐天正4)にわたる。原本37冊が残存し,大部分が東大史料編纂所蔵。…

【山科家】より

…藤原北家房前(ふささき)の男魚名の後裔で,四条家の支流に当たる。すなわち四条中納言家成の六男権中納言実教(さねのり)(1150‐1227)を祖とする。後白河法皇の寵妃丹後局(高階栄子)の子教成(のりしげ)(1177‐1239)は法皇の信任が厚く,勅旨により四条実教の嗣子となり,丹後局の山科の別業を譲られ,子孫は同所に住んだが,南北朝時代の中ごろ,教行のときから地名にちなんで山科を姓とするようになった。…

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