日乾(読み)にっけん

改訂新版 世界大百科事典 「日乾」の意味・わかりやすい解説

日乾 (にっけん)
生没年:1560-1635(永禄3-寛永12)

安土桃山末期・江戸初期の日蓮宗の僧。若狭国小浜に生まれた。俗姓塚本氏,寂照院と号する。10歳で父を失い,故郷長源寺日欽に就いて出家。日欽の没後,上洛して本満寺日重に師事した。内外の学を修め,1588年(天正16)日重の譲りを受けて本満寺8世を継承した。1602年(慶長7)後陽成天皇の下問に応じて《宗門綱格》を上書し,本宗の宗旨を明らかにした。請われて身延山久遠(くおん)寺21世も務め,そのおり,立正会竪義(りゆうぎ)の式を整えた。徳川家康の側室養珠院の帰依を受ける一方,27年(寛永4)には本阿弥一家の帰依を得て,鷹峰(たかがみね)に常照寺を創建して檀林を開いた。池上日樹らが不受不施義を唱導すると,法弟日遠,その弟子日暹(につせん)らと受不施義をたてて対抗し,30年江戸城内で行われた身池対論の結果,日樹らが配流されたのち,幕命で京都妙覚寺に入った。著作に《西谷名目箇条》,《破奥記》《謗施受用論》などがある。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「日乾」の解説

日乾 にちけん

1560-1635 織豊-江戸時代前期の僧。
永禄(えいろく)3年生まれ。日蓮宗。京都本満寺の日重に師事。本満寺13世をへて慶長7年身延山久遠寺21世となる。京都鷹峰(たかがみね)に檀林(だんりん)をひらき,また江戸城での不受不施派との対論(身池対論)に出席して勝利した。寛永12年10月27日死去。76歳。若狭(わかさ)(福井県)出身。俗姓は塚本。字(あざな)は考順。号は寂照院。著作に「宗門綱格」「破奥記」など。

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世界大百科事典(旧版)内の日乾の言及

【久遠寺】より

…こうして,日朝ら3人は身延中興の三師と呼ばれる。近世初頭には,関西の六条本国寺門流の日重が貫首に招かれたが,日重は弟子日乾(につけん)を推した。日乾に次いで同門の日遠(にちおん)も貫首に就任,関西門流の東国進出を果たした。…

※「日乾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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