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江戸城 えどじょう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

江戸城
えどじょう

千代田城ともいう。東京都千代田区丸の内の皇居にあたり,平城。徳川氏の居城で,江戸幕府所在地平安時代末から鎌倉時代にかけては,平良文の孫秩父将常の子孫江戸氏の居館であった。康正2 (1456) 年,太田道灌が居館として築城を始め,翌長禄1 (57) 年落成。

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デジタル大辞泉の解説

えど‐じょう〔‐ジヤウ〕【江戸城】

東京都千代田区にあった江戸幕府の本城。現在の皇居。中世の江戸氏の居館跡に、長禄元年(1457)太田道灌(おおたどうかん)が築城。のち、天正18年(1590)の徳川家康関東移封入城後、3代将軍家光に至る数回の工事で完成。その後、数度の火災と改修を繰り返したが、本丸は幕末に焼失。明治になって皇居となり、西の丸跡に宮殿が建てられた。富士見櫓(やぐら)・伏見櫓・桜田二重櫓のほか多くの城門を残す。千代田城

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百科事典マイペディアの解説

江戸城【えどじょう】

千代田城とも。江戸幕府の所在地。東京都千代田区にあった。1457年,太田道灌が築城。1590年徳川家康が入城。秀忠が本格的な造営を始め,1636年家光の時に完成。
→関連項目江戸江戸開城大奥御用部屋東京[都]見付紅葉山紅葉山文庫

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世界大百科事典 第2版の解説

えどじょう【江戸城】

武蔵国江戸の地に建設された城郭。江戸城の発端は,12世紀初めごろ江戸重継が,荏原郡桜田郷の北東部,江戸湾に臨む台地上に設けた居館で,その場所は近世江戸城の本丸台地上と推定されている。江戸氏の子孫が多くの庶流に分かれて勢力が衰えたあと,室町時代の1457年(長禄1)に関東管領扇谷上杉氏の家宰太田資長(道灌)がこの地に築城した。道灌の江戸城には子城,中城,外城の3郭があり,各郭は周囲に土塁を巡らし,郭と郭の間には空濠を設けた。

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大辞林 第三版の解説

えどじょう【江戸城】

江戸幕府の所在地で徳川氏一五代の居城。平安末期以来の江戸氏の居館の地に、1457年関東管領上杉氏の家臣太田道灌が築城。のち、上杉氏が拠り、さらに北条氏の支城となり、1590年徳川家康が入城。慶長年間(1596~1615)より寛永年間(1624~1644)に規模拡張され、1868年開城まで徳川将軍家の居城。1868年(明治1)皇居となる。千代田城。

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日本の城がわかる事典の解説

えどじょう【江戸城】

東京都千代田区にあった平山城(ひらやまじろ)。国指定特別史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。扇谷上杉氏の家臣太田道灌が1457年(長禄1)に築いた城がその起源。それ以前の平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、江戸氏の居館があったともいわれる。道灌が暗殺された後は扇谷上杉氏の城となり、次いで小田原の北条氏が同城を攻略し、武蔵進出の拠点とした。1590年(天正18)の小田原の役では、江戸城は開城して豊臣秀吉に接収され、同年8月に北条氏旧領を含む関八州への国替えとなった徳川家康が新たな居城とした。家康が入城した当時の江戸城は、道灌が築城した比較的小規模で質素な城だったといわれる。1603年(慶長8)、家康が幕府を開くと江戸城の本格的な拡張・整備が始まり、家康、秀忠、家光の3代にわたって日本全国の大名が動員され、5層の天守と20基の櫓(やぐら)、西の丸、北の丸などの増設や外郭の整備が行われて、家光の代の1636年(寛永13)に江戸城の総構えが完成し、周囲16kmの内郭を持つ日本最大の城郭となった。しかし、1657年(明暦3)の明暦の大火で天守を含めた多くの建物が焼失した。その後、天守が再建されることはなかった。1868年(慶応4)に、最後の将軍の徳川慶喜が大政を奉還して江戸城を開城し、東京(とうけい)城と改称され、翌年の東京遷都により皇城となった。1888年(明治21)には明治宮殿が完成して宮城と呼ばれるようになった。皇居と呼ばれるようになったのは戦後の1948年(昭和23)で、その翌年には西の丸下と、皇居を取りまく濠周辺が「国民公園皇居外苑」として開放され、さらに1969年(昭和44)には北の丸も外苑の一部として開放された。江戸城は数度の火災によって多くの建物が失われ、大正期の関東大震災でも被害を受けた。伏見櫓、富士見櫓、巽櫓などが現存するが、これらは関東大震災後、解体・復元されたものである。また、江戸城には数多くの城門があったが、桜田門、田安門、清水門が現存し、国の重要文化財になっている。JR東京駅また地下鉄千代田線大手町駅から徒歩約5分。◇千代田城とも呼ばれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

江戸城
えどじょう

室町期から江戸期の城。東京都千代田(ちよだ)区千代田にある。千代田城ともいわれ、江戸期には徳川氏15代の居城として、幕府の置かれた所であった。位置的には関東平野の南端、江戸湾の北隅で、関八州のほぼ中央に位置し、陸上交通、水上交通の拠点ともいうべき場所である。[小和田哲男]

歴史

城が初めて築かれたのは1457年(長禄1)で、関東管領(かんれい)扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰太田資長(おおたすけなが)(出家して太田道灌(どうかん))が古河公方(こがくぼう)足利成氏(あしかがしげうじ)に対抗するための拠点として築いた。道灌時代の江戸城は子城(しじょう)、中城(なかじょう)、外城(とじょう)の三つからなり、その位置は江戸期の城の本丸部分と考えられているが、近年発掘調査が行われた北の丸公園から、道灌時代のものと思われる空堀の断面が出てき、しかも、本丸と北の丸は地続きであったことが明らかになり、本丸から北の丸公園あたりが中心部であった可能性が強くなってきた。道灌死後、一時曽我豊後守(そがぶんごのかみ)が城代として入ったが、さらに扇谷上杉朝良(ともよし)、朝興(ともおき)が入城した。朝興のとき北条氏綱(ほうじょううじつな)の攻撃を受けて開城し、以後、城は北条氏の支城となったのである。北条氏の支城だった期間は1524年(大永4)から1590年(天正18)までの66年間、その間、城代として太田氏、富永氏、遠山氏などが送り込まれていた。
 北条氏時代の江戸城は道灌時代の城をそのまま利用したものと考えられているが、北条氏が滅亡したあと入城した徳川家康によって大改修が施された。家康は、道灌時代の子城、中城、外城に分かれていた曲輪(くるわ)を一つにまとめてこれを本丸とし、山下に二の丸、三の丸を設け、さらに1592年(文禄1)豊臣秀吉(とよとみひでよし)が伏見(ふしみ)に隠居城を築いたのに便乗して、隠居城として西の丸を設けた。関ヶ原の戦いを経て1603年(慶長8)に家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になるに及んで、江戸城は単なる大名の居城ではなく、政治、経済上の中心としての位置づけが加わり、江戸城の整備が要請されたのである。以後、各地の大名を動員しての天下普請が行われ、家康の代では終わらず、2代秀忠(ひでただ)、3代家光(いえみつ)に引き継がれ、結局、1606年(慶長11)から1636年(寛永13)まで大工事が7回も行われた。最終的には6代将軍家宣(いえのぶ)のとき、1710年(宝永7)芝口門(しばぐちもん)ができて、東西約5キロメートル、南北3.9キロメートルに及ぶ日本最大の城ができあがったのである。なお、1867年(慶応3)15代将軍慶喜(よしのぶ)が大政奉還して幕府が滅亡したあと、翌1868年(明治1)明治天皇が京都より遷都し、城も一時東京城と改められ、皇居として現在に至っている。[小和田哲男]

構造

江戸期の城は内郭と外郭に大きく分けて考えることができ、内部はさらに本城と西城に分けられる。本城の部分は本丸、二の丸、三の丸からなり、この部分の面積はおよそ31万平方メートルであった。文字どおり江戸城の中心で、本丸には本丸御殿が建てられており、表(おもて)、中奥(なかおく)、大奥(おおおく)の三つの部分からなり、表殿舎は幕府の政治上の中枢部で、老中らが政務を行う御用部屋や、諸大名、外国使節らの謁見(えっけん)などが行われる大広間や、白書院、黒書院などの座敷があった。中奥は将軍が日常起居し政務をみたりする「官邸」であり、大奥は将軍の夫人(御台所(みだいどころ))を中心に後宮の女性が生活する場所で、いわば「私邸」であった。この本丸北側に1607年(慶長12)完成の五層六重の天守閣が建てられていたが、1657年(明暦3)の明暦(めいれき)の大火で類焼し、以後は再建されることなく、城内の富士見櫓(やぐら)(3層)によって代用された。二の丸は本丸南側および東側に南北に細長い形をしており、三の丸はさらにその東側に位置し、江戸期の城の遺構がいちばんよく残る部分である。すなわち、大手門(渡櫓は復原)、平河門(ひらかわもん)、桔梗門(ききょうもん)などがある。
 西城(西の丸、山里曲輪(くるわ))の西の丸は前将軍の隠居所、次将軍の居所として用いられた所で、ここに伏見櫓がある。明治維新後、明治天皇が入ったのは西の丸で、1873年(明治6)に西の丸御殿(皇居)が炎上したあと、同じ場所に明治新宮殿が1888年に建てられている。なお、以上の内郭に対し、外郭として西の丸下曲輪(現在皇居前広場)、大名小路(現在丸の内)、北の丸(現在北の丸公園)、吹上曲輪からなる中曲輪があり、さらにそれをもう一重の外濠(そとぼり)が巡っていた。これは江戸市中を包み込んだ形の総構(そうがまえ)で、虎口(こぐち)としては芝口門、幸橋門(さいわいばしもん)、虎ノ門(とらのもん)、赤坂門(あかさかもん)、喰違門(くいちがいもん)、四谷門(よつやもん)、市谷門(いちがやもん)、牛込門(うしごめもん)、小石川門(こいしかわもん)、筋違橋門(すじかいばしもん)、浅草橋門(あさくさばしもん)があり、浅草橋門からちょうど螺旋(らせん)状に塁濠が本丸まで入る形になり、三十六見付(みつけ)とよばれる50余の城門によって城と町全体が固められる仕組みになっていたのである。
 現存建造物としては、本丸の富士見櫓、宝蔵、北拮橋門(きたはねばしもん)、中の門内番所、三の丸の桜田二重櫓、大手門、平河門、内桜田門、西の丸の伏見櫓、数寄屋二重櫓、西の丸大手門、西の丸下の桜田門、和田倉門の橋、吹上郭の半蔵門(もとは西の丸下の和田倉門)などがあり、大手門、清水門(しみずもん)、田安門(たやすもん)の渡櫓は復原されており、天守台の石垣をはじめ、石垣、堀はほぼ完全な形で保存されている。[小和田哲男]
『『東京市史稿 皇城篇』5冊(1911~1918・東京市) ▽内藤昌著『江戸と江戸城』(1966・鹿島研究所出版会) ▽村井益男著『江戸城』(1964・中央新書)』

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世界大百科事典内の江戸城の言及

【大奥】より

…江戸城内殿舎の奥向の称。江戸時代には,大名・旗本など大身の武家の邸宅では,当主を中心として家政処理や対外的応接などを処理する〈表〉と,当主の妻を中心に子女たち家族が生活する〈奥〉とが明確に区別されていた。…

【太田道灌】より

…太田氏は,丹波国桑田郡太田郷の出身といい,資清のときに扇谷上杉氏の家宰を務めた。道灌は家宰職を継ぎ,1457年(長禄1)に江戸城を築いて居城とした。76年(文明8)関東管領山内上杉顕定の家宰長尾景信の子景春が,古河公方足利成氏と結んで顕定にそむくと,主君上杉定正とともに,顕定を助けて景春と戦った。…

【御用部屋】より

…江戸城本丸御殿で,大老・老中・若年寄が執務した部屋。初期は将軍御座間(ござのま)の近くにあったが,老中・若年寄の側近的性格が薄れた中期以降は,1684年(貞享1)大老堀田正俊の刺殺事件をきっかけに,将軍の日常生活空間である中奥(なかおく)から表に移された。…

【大名】より

…さらにこれを将軍との親疎関係によって分類する場合は,三家,三卿,家門,譜代,外様に分けるが,家門は三家,三卿以外の親藩およびその分家をさし,旧族大名と織豊大名を徳川系大名に対して外様に一括する。 また領国や居城の規模によって,国主(国持),准国主,城主,城主格,無城に分け,あるいは江戸城中の詰間(つめのま)によって,大廊下,溜間(たまりのま),大広間,帝鑑間(ていかんのま),柳間,雁間(かりのま),菊間に分け,さらに官位によって,侍従以上,四品(しほん)(四位),諸大夫(五位)に分け,石高によって,10万石以上,5万石以上,1万石以上に分ける場合もある。大名はこれらの組合せによって複雑多岐な格式序列がつくられたが,このことは大名(藩)の存在形態がきわめて多様であったことを示している。…

【西丸】より

…一般的には城の本丸の西側に位置する郭の意で,歴史的には江戸城の西丸が著名。江戸城西丸の地は,戦国時代までは城外であったが,徳川家康が入城してのち1592年(文禄1)に城を拡張して一郭とした。…

【吹上御苑】より

…現皇居の内苑。旧江戸城の北西部にあり,名称の由来は同地が池沼に臨み,風が下より吹き上げる地勢によるという。徳川氏の入国前は局沢(つぼねさわ)と称し,16ヵ寺があり庶民の遊山所であったが,江戸城の造営により後苑に当てられたもの。…

【明暦の大火】より

…前年11月以来80日も雨が降らず乾燥しきっていたうえ,北西風が激しく吹く1月18日午後2時ごろ,本郷丸山から出火,本郷・湯島・駿河台・神田・日本橋・八丁堀・霊岸島から佃島・石川島まで延焼,また駿河台から柳原・京橋・伝馬町・浅草門へひろがり,隅田川を越えて牛島まで飛火して,翌19日早朝鎮火した。また19日午前10時ごろ,伝通院表門下の新鷹匠町より出火,北西の強風にあおられ,小石川・飯田町から田安門・竹橋門内の大名・旗本屋敷を焼き,譜代大名の懸命な防火にもかかわらず,正午過ぎ江戸城の天守閣に火が入って焼け落ち,本丸・二の丸も焼失して,将軍徳川家綱は西の丸に移った。火は常盤橋・鍛冶橋・数寄屋橋門内の諸大名の邸宅を焼き,夕刻から変わった西風により八代洲河岸から中橋・京橋・新橋・鉄砲洲に及んだ。…

【紅葉山】より

…江戸城の本丸と西丸との間で,西丸の東北にある小丘。鷲の森と呼ばれていたところで,楓山とも書く。…

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