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不受不施派 ふじゅふせは

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

不受不施派
ふじゅふせは

日蓮宗の一派で,文禄4 (1595) 年日奥が開いた。『法華経』の信者ではない者からは布施を受けず,与えないという意味でこの名がある。江戸幕府によりしばしば迫害され,邪宗門とされたが,門徒はひそかに内信者として宗義を守ってきた。

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デジタル大辞泉の解説

ふじゅふせ‐は【不受不施派】

日蓮宗の一派。文禄4年(1595)京都妙覚寺日奥が、法華経信者以外からは施しを受けず、施しもしないと主張したことに始まる。江戸時代は禁制、明治9年(1876)公許を得る。岡山市御津金川(みつかながわ)の妙覚寺を本山とする。

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百科事典マイペディアの解説

不受不施派【ふじゅふせは】

日蓮宗の一派。派名は《法華経》を信じない人からは布施を受けず,法を施さないとする教義に由来。1595年豊臣秀吉の千僧(せんそう)供養の際,日奥(にちおう)〔1564-1630〕が不受不施を唱えて参加しなかったことに起源。
→関連項目寺請制度

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじゅふせは【不受不施派】

日蓮宗の一派。京都妙覚寺住持の日奥(にちおう)を派祖とし,江戸幕府に禁教されたので〈禁教不受不施〉の名で有名。不受とは寺や僧侶が謗法(ほうぼう)(他宗)からの布施供養を拒否すること。不施とは謗法の寺社や僧侶に日蓮宗の信者は布施供養をしないこと。法華信仰だけを正しい仏法とした日蓮宗の立場からみると,謗法は諸宗無得道という邪信仰である。謗法からの布施供養はその邪を正すべき相手からの施物である。受容すると,邪を正す〈折伏(しやくぶく)〉の根拠は失われる。

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大辞林 第三版の解説

ふじゅふせは【不受不施派】

日蓮宗の一派。本山は岡山県岡山市御津の妙覚寺。1595年京都妙覚寺の日奥が一派を分立、「法華経」の信者以外からの施しを受けず、また他宗の者には施しをしないという教義を唱え、江戸幕府から邪宗として弾圧された。1876年(明治9)、釈日正が再興。日蓮宗不受不施派。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

不受不施派
ふじゅふせは

日蓮(にちれん)宗の一派。不受不施とは受けず施さずということで、日蓮宗以外の他宗および不信者(謗法(ぼうほう)者)の布施供養(ふせくよう)を受けず、信者は謗法の僧に供養しないという、日蓮教団の信仰の清浄、純正を守るための宗規であり信条である。この不受不施義は、日蓮教団の形成・発展の初期は、公武の権力者は枠外にあった(王侯除外の不受不施制)が、室町時代に入ると公武も一般信者も同等にして差別なしとされ、宗祖日蓮以来の古制として厳守されてきた。1595年(文禄4)豊臣(とよとみ)秀吉は東山の方広寺に大仏殿を建て千僧(せんそう)供養を営み、諸宗の僧とともに日蓮宗も招請した。これを拒む日奥(にちおう)と柔軟派の日重(にちじゅう)とが対立、結局、日重派が大勢を占めたが、ここに不受不施の論争が展開することとなった。秀吉が没し、徳川家康の時代となると、日奥の主張は国主の権威を損なうものとして1600年(慶長5)対馬(つしま)に遠流された。1612年日奥は赦(ゆる)され、23年(元和9)江戸幕府は不受不施派に公許状を与えた。しかし、布施を受けることを認める京都側と、不受不施を主張する関東諸山はつねに対立した。幕府は初め、2派の対立抗争に介入せず、統制下に置くこともなかったが、1660年(万治3)ころ幕府機構の確立とともに全国寺社領の朱印を調査し、改めて朱印を下付した。ここに、朱印を放棄し出寺した不受不施僧(法中(ほっちゅう))を中心に、表面は一般日蓮宗や天台宗、禅宗などの檀家(だんか)となり内心に不受不施を信ずる(内信(ないしん))者と、自ら戸籍を脱して無宿の者となり内信と法中の間にあって給仕する(法立(ほうりゅう))者とが自然に生まれ、内信―法立―法中と連係する秘密の教団組織が形成され、これを不受不施派という。不受不施派は教団形成後まもない1682年(天和2)のころ日指(ひざし)派(尭了(ぎょうりょう)派)と津寺(つじ)派(講門派)に分かれたが、1876年(明治9)4月、尭了派の釈日正(しゃくにっしょう)が「日蓮宗不受不施派」を再興し、派名公称の許可を得、84年3月に講門派の釈日心(しゃくにっしん)は「日蓮宗不受不施講門派」の公許を得た。[望月良晃]
『宮崎英修著『不受不施派の源流と展開』(1969・平楽寺書店) ▽相葉伸著『不受不施派殉教の歴史』(1976・大蔵出版)』

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世界大百科事典内の不受不施派の言及

【賽銭】より

…こうして賽銭の目的も多彩となり,敬虔な報謝の性格から,神仏の加護や利益を取引しようとする一種の投資的な祈念をこめた散銭もあった。中世後期から盛行した名神大寺への庶民群参の風潮とあいまって,ほとんどの社寺に賽銭箱が設けられたが,ただ日蓮宗不受不施派(ふじゆふせは)の寺院だけにはこの箱が置かれなかった。賽銭には謗法(ほうぼう)(他宗の人)の銭がまじるからである。…

【日奥】より

…日蓮宗不受不施派の派祖。京都町衆の子。…

【日樹】より

…池上の学室に入り,1619年(元和5)鎌倉比企谷(ひきがやつ)妙本寺,池上本門寺両山の住持となり,また浅草長遠寺を開創した。日奥に学問的に私淑し,中山法華経寺日賢,小西檀林日領,本土寺日弘らとともに池上を中心とした関東学派の不受不施派を唱和し,本満寺日重,身延日乾らを中心とする身延・関西学派の受不施派と対抗した。ことに30年(寛永7)幕命により,江戸城内で行われた身池対論には不受不施派を代表して出席し,受不施派と激しく法論を行ったが,同派は禁教に処され,彼も信州伊奈に流された。…

【妙覚寺】より

…寺地の広さは洛中では東寺・相国寺・妙顕寺につぎ,地方末寺も多く,寺勢の強大さが知れる。江戸初期,住持日奥が幕府の弾圧にも屈せず不受不施の宗義を説き,受不施派の身延山と対立,1630年(寛永7)の身池対論(しんちたいろん)まで不受不施派の拠点となった。現存堂宇のほとんどは1788年(天明8)の大火後の再建。…

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