日光奉行所跡(読み)につこうぶぎようしよあと

日本歴史地名大系 「日光奉行所跡」の解説

日光奉行所跡
につこうぶぎようしよあと

[現在地名]日光市安川町

南は馬町うままち通に面し、東は山内善女神さんないぜんによじ金蔵こんぞう坊、西は目代屋敷、北は大黒だいこく山麓に続く。慶安元年(一六四八)頃から目付二名が三〇日交替で日光に駐在するようになった。また下僚として日光御殿番四名・同心三六名が置かれた(「日光御殿番来由格式」県立博物館蔵)。同四年三代将軍徳川家光が没し、日光山に葬られた。その柩に扈従して来た小納戸衆梶金兵衛定良は、翌承応元年(一六五二)霊廟定番(日光山守護職・日光御宮番とも称される)となり(「梶金兵衛宛下知条々」日光山御堂方書物之写)、善女神谷に屋敷を拝領した。明暦元年(一六五五)の日光山条目(日光山御判物之写)には「山中万事仕置、門跡以差図梶左兵衛佐并目代・両別当可執行之」とあり、輪王寺宮の下で梶および目代・両別当が日光山支配に当たるとされている。元禄一一年(一六九八)五月三日、かねてより老齢のため隠退を願出ていた定良に幕府から許可が下り、蓮花石れんげいし村に隠居の地を設け、采地はそのままとされた。六月八日定良は没し、その下僕小野良直が召出され日光御殿番に任じられた。翌七月一七日には目付水谷勝阜・久留正清の二名が日光へ遣わされており、日光に駐在する目付は二名に増員された。元禄一三年八月二八日には目付井上正清・使番稲葉正能が「新置の職」日光奉行に命じられ、幕府の遠国奉行の一として日光奉行が設置された(以上「徳川実紀」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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