江戸の火の見櫓は,1658年(万治1)定火消の制が発足し,火消屋敷に建てられたのに始まる。高さ3丈(約9m),外部の蔀(しとみ)は白木生渋(きしぶ)塗であったが,それは定火消屋敷に限られ,続いて設けられた大名火消屋敷や町の木戸の火の見櫓はすべて黒塗で,櫓の高さも定火消のそれより低くなければならなかった。また櫓の上層部が四方にあいているのは定火消の櫓のみで,大名火消の櫓も江戸城に面した側はふさがれていた。定火消の櫓には昼夜の別なく2人の見張番が立ち,火災を発見するとつるした太鼓を打ち鳴らしたが,大名火消は板木(はんぎ),町方は半鐘であった。享保年間(1716-36)には10町に一つずつ火の見櫓が設けられ,櫓のない町には自身番屋の上に火の見梯子が設けられた。防火策として火の見櫓は画期的なものではあったが,たとえ町方が先に火災を発見しても,定火消の太鼓が鳴らぬかぎり,半鐘を鳴らすことは許されなかったという。
執筆者:池上 彰彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
火事を警戒するために常時登ったり、火災のとき、出火場所の方向、距離などを見定めるために登る櫓。櫓上には半鐘が設置されており、これを打ち鳴らして火事を知らせる。たとえば、火元が遠い場合は一打ずつ間を置いて打ち、近火の場合にはきわめて急繁に打つ。この火の見櫓が最初に設置されたのは明暦(めいれき)の大火の翌年(1658)のことで、幕府直属の定火消(じょうびけし)が設けられた際、火消屋敷に高さ3丈(約9メートル)のものが建てられ、昼夜、火の番が見張り、出火を認めると太鼓で合図した。江戸では、およそ十か町に一か所建てられ、それ以外の町では、自身番小屋の屋上に、梯子(はしご)と半鐘を取り付けただけの所もあった。明治以降もこの火の見櫓の名称は残っていたが、自警団の櫓を除き、都市の消防署では建物の近代化に伴い、望楼とよぶようになった。現在では、周辺の建物が高層化し、実際にはあまり使われていない。
[片岸博子]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…明暦の大火(1657)以後,機敏性を欠く大名火消のほかに幕府直属の江戸中定火之番つまり定火消が組織され,城下数ヵ所に火消屋敷が設置された。そこには火の見櫓を設けて昼夜火の番が見張りに立ち,出火を発見すると太鼓で合図を出した。町方でも自衛の火消組織ができ,警備のために各町内に自身番,町境には木戸番が設置された。…
※「火の見櫓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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