是川村(読み)これかわむら

日本歴史地名大系 「是川村」の解説

是川村
これかわむら

[現在地名]八戸市是川・是川一―五丁目

八戸城下の南に位置し、新井田にいだ川に沿う。集落は流域沿いに散在するが、西部は丘陵地となり、南方の新井田川上流地は峻険な渓谷をなす。東を久慈くじ街道、西をのぼり街道が南北に通る。東は十日市とおかいち村・松館まつだて村および金山沢かなやまざわ(現三戸郡階上町)、西は根城ねじよう村・櫛引くしひき村、北は石手洗いしてあらい村・中居林なかいばやし村・糠塚ぬかづか村など、南は島守しまもり村・頃巻沢ころまきざわ(同南郷村)に接する。正安三年(一三〇一)のきぬ女家族書上案(新渡戸・岩大文書)に「八戸これかはの安藤三郎か(女)きぬをんな(女)ハ」とあり、この頃安藤氏が居住し、馬牧の管理飼育などの任に当たっていた。その後根城南部氏の勢力拡大に伴い同氏領に含まれるようになった。

藩政当初は盛岡藩に属し、元和四年(一六一八)知行目録に「四百三拾三石四斗八升三合 是川」「百三拾七石三斗三升三合 下是川」「三拾壱石三斗壱升五合 ほろこ」とあり、根城南部氏に給されていた。正保四年(一六四七)の南部領内総絵図には是川村、二八二石余とあり、同年の郷村帳によれば二八二・〇六九石のうち一六一・七三二石が田である。雑書の承応二年(一六五三)八月九日条に「八戸之内是川・松館、川(ママ)・十日市・新田・湊迄、洪水ニて田畠押成ノ由」と洪水の記録がみえる。寛文四年(一六六四)八戸藩創設とともに同藩領に編入。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳に是川村として高九一四・四一七石、うち畑五四六・四〇三石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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