大岡村(読み)おおおかむら

日本歴史地名大系 「大岡村」の解説

大岡村
おおおかむら

面積:四六・二九平方キロ

東は更埴こうしよく桑原くわばら、南はひじり山嶺で東筑摩ひがしちくま麻績おみ村、西から北はさい川、北は上水内郡信州新しんしゆうしん町である。

聖山(一四四七・六メートル)たらら(一三八九メートル)の山嶺から西と北に向かって扇状地形に傾斜して、西は麻績川へ、北は犀川に達している。聖山の湧水は四八あるといわれ、四方に向かって流れ下っている。大岡村の地域には樋沢ひざわ川・高堰たかせぎ川・くち川・根越沢ねごしざわ・ひがん沢等があって幾筋もの谷あいと山尾根続きの地形である。

大岡村
おおおかむら

[現在地名]大岡村根越ねごし宮平みやだいら川口かわぐち和平わだいら

東は中牧なかまき村(現上水内かみみのち信州新町)、南はひじり山嶺で麻績おみ村・上井堀かみいほり村・たか(現東筑摩郡麻績村)仁熊にのくま(現東筑摩郡坂井村)と境している。西はさい川、北は南牧みなみまき(現上水内郡信州新町)である。

和名抄」記載の更級郡内の古代郷「当信たしな」の郷は、鹿谷かや日名ひな・大岡等広い地域をさしているともいうが明らかでない。鹿谷の当信神社と大岡川口健大岡たけおおおか神社は、祭神はともに大年神・健御名方命で、御筒粥祭を行っている。

大岡村
おおおかむら

[現在地名]安城市大岡町

東は高木たかぎ村、南は山崎やまざき村に隣する。枚田まいた庄大岡郷はこの地で、村の東口に立って矢作やはぎ新堀にいぼり桑子くわご(現岡崎市)の村が眼下に一望できるところから大岡の名が生れたという(安城町誌)。白山社領として、近世を通じ領主は変わらない。中世大岡の小領主になった者に大岡氏がいる。大岡氏は、弥四郎重辰の代に安城に来て、大岡明神の神官大岡忠喜の婿となったことに始まるという(寛政重修諸家譜)。大岡明神は養老二年(七一八)創建と伝え、神宮寺源覚げんかく寺があったが、今は源覚の地名のみ残る。別当寺として貞印ていいん寺があったが、現在は高木村にある。

大岡村
おおかむら

[現在地名]多賀町大岡おおおか

多賀村の東、南東四手しで村。弥生時代から平安時代にかけての大岡遺跡があり、弥生式土器片をはじめ三〇メートル余もある円墳一基を含む古墳四基と同時期の竪穴住居跡、奈良時代から平安時代にかけての掘立柱建物跡や墓が発見された。天正一一年(一五八三)八月一日の羽柴秀吉判物(集古文書)に「大か」とみえ、高二〇〇石余などが久徳左近兵衛尉に与えられている。慶長高辻帳に高二四五石余とある。

大岡村
おおおかむら

[現在地名]岩瀬町岩瀬

岩瀬盆地中央にあり、東は磯部いそべ村、南は谷中やなか村、西は岩瀬村。村の西に大岡山がある。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。当村には山外南やまそとみなみ郷の代官所があり、年貢米を納める食庫もあった(「十五年来眼目集」茨城県歴史館蔵)。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には溜池三があり、芝野は岩瀬村・本新田ほんしんでん村・西にし新田村の入会。

大岡村
おおかむら

[現在地名]伊自良村かけ

伊自良川左岸に位置し、東は掛村分郷の大門だいもん、南は洞田ほらだ村。もと伊自良村のうちで、元禄郷帳に高三一石余とあり、幕府領。東光寺古文書(東光寺蔵)には掛村の支郷と記され、明治二年(一八六九)の掛村明細帳も掛村飛地四ヵ所の一つとする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報