曾地村
そうじむら
篠山川支流の曾地川流域に比定される。「篠山領地志」は曾地奥・曾地中・曾地口を曾地庄とし、「多紀郡志」では曾地村のほか野々垣村・八上上村をあげるが、上宿・泉・般若寺とより広域の推定もある。「太平記」巻一五には、建武三年(一三三六)一月二九日に足利尊氏が京都で敗れて丹波に逃れ、篠村(現京都府亀岡市)を通って曾地の内藤道勝の館に着き、二月二日に曾地を立って摂津に向かったと記す。同四年八月二三日の高師直に宛てた丹波守護仁木頼章書状(祇園社記雑纂)によれば、祇園前執行顕詮の家人越中房が吉野に通じ、綸旨を諸方に出したため召捕らえ、「曾他宿」で誅している。
曾地村
そちむら
東は長鳥村・成沢村、西は曾地新田、南は吉井村、北は飯塚村、赤田村(現刈羽郡刈羽村)。集落は丘陵縁辺の曾地と東方丘陵中に栃久保・笹小屋がある。曾地峠越の道が柏崎と長岡を結ぶ。「延喜式」兵部省の北陸道越後国駅馬にみえる「多太」五疋の多太駅の所在地とする説がある。文明三年(一四七一)二月二二日の伊弥彦神条式写(高橋文書)に「国中散在御祈祷田事」として「五十四段曾智 吉井保」がみえ、当地に弥彦神社の祈祷田があったと思われる。近世の支配は柏崎町と同じ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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