月崎村(読み)つきざきむら

日本歴史地名大系 「月崎村」の解説

月崎村
つきざきむら

[現在地名]小野田町 月崎

現小野田町の南東端にあり、南は高根たかね(現色麻町)、西は平沢ひらさわ(現同上)、北は小野田本郷、東は下野目しものめに接する。村域北側を鳴瀬なるせ川が東流する。正保郷帳に田四一貫九一四文・畑六貫九四七文とあり、ほかに同所新田六四九文がある。「安永風土記」によれば、田四六貫二一四文・畑八貫八七七文(うち茶畑一貫三〇文)で、蔵入は三三貫三七二文、給所は二一貫七一九文、人頭三四人(うち寺一・沽却禿三)、家数三五(うち水呑四)、男一〇六・女九三、馬四〇で、神社は村鎮守の熊野社など五社がある。


月崎村
つきざきむら

[現在地名]京ヶ瀬村月崎

東は六日野むいかの村、南は七島ななしま新田。近世前期は新発田藩岡方組の五ヶ村組に属し、寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)に家数八・人数四六とある。天明二年(一七八二)の岡方組万雑組立帳(倉島肩吾氏蔵)によれば役石は三三石一斗余で、一貫六〇〇文の組万雑を負担している。寛政元年(一七八九)幕府領となり(「御上知村附写」豊栄年表資料)、同一二年の水原代官所村々高書上帳(小田島余吉氏蔵)の村高は二五石余で、岡方組に属した。


月崎村
つきざきむら

[現在地名]市原市月崎

田淵たぶち村の北西にあり、養老ようろう川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二二五石。正保国絵図では高二五五石余。寛文四年(一六六四)の土屋利直領知目録(寛文朱印留)に村名があり、延宝七年(一六七九)まで久留里藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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