月津村(読み)つきづむら

日本歴史地名大系 「月津村」の解説

月津村
つきづむら

[現在地名]小松市月津町・月美丘つきみがおか

柴山しばやま潟東部沿岸、茶臼ちやうす山山麓にあり、西は額見ぬかみ村、北は四丁しちよう村。着津・槻津とも記される。「加国官知論」によれば、長享二年(一四八八)一月一三日、一向一揆の高尾たかお(現金沢市)攻撃の機先を制し、越前朝倉氏に来援を請うた富樫政親の被官松坂(八郎)信遠が、二千余騎で「槻津上野」に陣取って越前勢を待つところに、江沼郡の勢七千余騎が今江(兵衛)兼治大将として攻撃したため敗死したとみえる。享禄錯乱では、享禄四年(一五三一)八月一七日超勝ちようしよう寺方が能美のみ・石川両郡の一揆七千余騎で山田光教やまだこうきよう寺顕誓・黒瀬覚道退治のため押寄せたので、「江沼ノ軍兵着津口へ馳向、三千余騎ヲ三手ニ分テ」応戦、超勝寺の弟勧帰かんき寺超源をはじめ七〇〇余人を討取り、これを撃退した(朝倉始末記)当地興宗こうしゆう寺所蔵の永正二年(一五〇五)八月八日の阿弥陀如来絵像裏書に「但馬興宗寺門徒加州江沼郡八田庄着津村太子堂 願主釈慶西」とみえる。興宗寺は当時越前坂井さかい長畝のうね但馬たじま(現福井県坂井町)にあり、寺伝では文明九年(一四七七)に「江沼郡矢田之庄月津村牛ケ鼻」に移ったというが(「牛鼻山但馬興宗寺由緒処伝写」興宗寺蔵)加賀への移転は永正三年の一揆敗北後と考えられている(加賀市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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