月田村(読み)つきだむら

日本歴史地名大系 「月田村」の解説

月田村
つきだむら

[現在地名]粕川村月田

なか村の北、赤城山の裾野のゆるい傾斜地にあり、南から赤城山に向かって耕地が段状につくられている。粕川が村の西端を流れる。近戸ちかと神社があり、「つきだ」は同神社の「いつきだ」(斎田)転化とみられる。寛文郷帳によると田方七一九石余・畑方二二〇石余、前橋藩領。寛文九年(一六六九)年貢割付状(松村文書)によると田五七町三反余・畑五三町五反余。この田畑に対し永は五四貫八〇〇文余。年貢米四四七石余、うち畑米五六石余。田五七町三反余のうち一四町ほどの田が川欠けや荒、年貢は四三町余の田にかけられたものである。一反当りの取高は上田が一石一斗一升、下々田六斗八升。畑は四七町余。取高は上畑三斗四升、下々畑一斗九升、永一七〇文。屋敷の取高四斗五升、永三〇〇文。享保四年(一七一九)および寛延三年(一七五〇)の年貢割付状(同文書)では高一千三七石余、反別は田五一町三反余、畑は六〇町ほど。田畑一反当りの取高は上田一石四升、下々田六斗五升、上畑二斗、下々畑一斗、永七五文。


月田村
つきだむら

[現在地名]玉名市月田

東境を菊池川(高瀬川)が流れ、北は内田うちだ(現玉名郡菊水町)、西は箱谷はこだに村、南は溝上みぞのうえ村に接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によれば田一二町二反五畝余・畠屋敷六町七反四畝余・屋敷二筆、分米一八七石七斗余。同一三年の検地帳には田三町二反七畝余・畠屋敷一町六反七畝余・屋敷二筆、分米四九石九斗余、家数八・人数七、牛二、上木数四とある。内田手永に属し、天保五年(一八三四)の同手永手鑑では高二三七石九斗・土物成一〇一石一斗余・受物成八〇石二斗余、田七町六反二畝余・畑三町九反九畝余、惣庄屋直触一名・下山口一名・揚酒本手二名が居住していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android