高瀬川(読み)タカセガワ

デジタル大辞泉 「高瀬川」の意味・読み・例文・類語

たかせ‐がわ〔‐がは〕【高瀬川】

長野県北西部の川。槍ヶ岳に発して北流し、大町市街付近から南流してさいに注ぐ。上流に高瀬・七倉ダムがある。
京都市にある運河。鴨川から分水し、伏見を経て淀川に通じる。慶長16年(1611)角倉すみのくら了以が開削し同19年完成。水深が浅く、高瀬舟を用いたところからいう。

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精選版 日本国語大辞典 「高瀬川」の意味・読み・例文・類語

たかせ‐がわ‥がは【高瀬川】

  1. [ 一 ] ( 水運に高瀬舟が用いられたところから名づけられた ) 京都市の中央部を南北に流れる運河。方広寺の再興に際し、資材の運搬のため、角倉了以が慶長一六年(一六一一)幕府に出願し、同一九年秋に完成した。二条から鴨川の水を引き、伏見の三栖(みす)に至り、淀川に通ずる。明治末年まで、京坂間の運送路としてさかんに利用された。全長約一〇キロメートル。角倉川
  2. [ 二 ] 長野県北西部を流れる川。槍ケ岳に源を発し、北流して大町市を通り、明科(あかしな)町で犀川に合流する。上流に高瀬ダム、葛(くず)温泉がある。

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日本歴史地名大系 「高瀬川」の解説

高瀬川
たかせがわ

かも川の西岸、上樵木かみこりき町の樋口から鴨川の西側に沿って中京区・下京区を南流し、東九条北松ひがしくじようきたまつ町・東九条南松ノ木町(南区)辺りで鴨川に合流、再び鴨川の東岸福稲高原ふくいねたかはら(東山区)から旧田園部(伏見区)を南流して伏見丹波たんば橋に至り、町の西部を南流して宇治うじ川に合流する。川幅四間(約七・二メートル)、延長五千六四八間三尺(約一〇・二六八キロ)の河川運河。角倉すみのくら川ともいった(雍州府志)

角倉了以が慶長一六年(一六一一)幕府に申請して起工したもので、寛永七年(一六三〇)の吉田了以翁碑銘によれば、大仏殿建立や禁裏修造の諸物資が鴨川疎通で円滑に輸送されたことから、大坂・伏見・京都を河川で結ぶことに着目、起工を思い立ったものである。運河工事は二条から五条、五条から伏見丹波橋、伏見分の三区間三期をもって進行。高瀬川年貢計画書(角倉家文書)は、工区・延長・段別・舟入・舟廻などを記載している。

<資料は省略されています>

工事進行にあたって慶長一八年一〇月には竹田たけだ(現伏見区)反対農民に工事で損なった田地分の年貢は引受けること、舟入の水を田地の用水として用いても異議のないこと、舟入が不用になった時はもとの田地にもどして返すこと、の三ヵ条の証文(角倉家文書)を入れている。開削費用は「七万五千両」(「明治三二年地所下戻申請書」京都府総合資料館文書)で、完成は慶長一九年秋頃と推定される。角倉了以は「権現様上意を以嵯峨川・賀茂川高瀬舟支配仕」ことと合わせて代々高瀬川支配権を得て(京都御役所向大概覚書)、「賀茂川高瀬川筋御年貢、壱ケ年銀弐百枚宛」を上納した(「元禄四年覚」京都府総合資料館文書)


高瀬川
たかせがわ

雄勝おがち郡羽後町軽井沢かるいさわから東由利町地内に入り、初め館合たてあい地区(旧玉米とうまい郷)を北に流れ、老方おいかたで西に向きを変え、旧下村しもむら郷のくら宿しゆくを通り、途中数本の支流を合わせ、本荘市石沢いしざわ地内に流れる。軽井沢までの上流を田代たしろ川とよび、東由利町地内では高瀬川と称し、石沢地内に入ると石沢川とよばれる。

宝暦八年(一七五八)御領分覚書(山懐の村)に「川有高瀬川といふ。源は仙北にて登様御領より落、玉米下村より本庄へ落」とある。流路は全体として蛇行が多く、河岸段丘がよく発達し水田あるいは畑として利用される。


高瀬川
たかせがわ

斐伊川と宍道湖を結ぶ年貢輸送流通路として利用された川。寛文四年(一六六四)松江藩仁多にた郡に二ヵ所、飯石いいし郡に一ヵ所、出雲郡には出西しゆつさい村と庄原しようばら村に各一ヵ所、計五ヵ所に「川方」という役所を置き、雲南の年貢や鉄の輸送ルートを確保した。雲南から運ばれる物資は斐伊川から出西村の岩樋を通り、出雲郡の高瀬川により庄原村の川方まで輸送された。高瀬川は川方設置以前にできていた可能性もある。「雲陽誌」によると、出西岩樋は高さ一間・横八尺・長さ一七間で、出西より高瀬川が庄原まで二里半流れ、川幅は一九〇間であった。


高瀬川
たかせがわ

北アルプス南部のやりヶ岳(三一八〇メートル)の北の北鎌きたかま尾根を挟む天井てんじよう沢と千丁せんちよう沢を水源として北アルプス本峰と大天井おおてんじよう岳・つばくろ岳の連峰の間の渓谷を北流し、山地の尽きる鹿島かしま川扇状地のところでかご川・鹿島川を併せ南流し松本盆地に出、東筑摩ひがしちくま明科あかしな町でさい川に入る。総長四七・五キロ、流域面積四四五平方キロである。総長の約半分の二五キロは平地を流れ、急流のため広大な高瀬川扇状地を形成する。


高瀬川
たかせがわ

出雲市大津おおつ町の来原くりはら岩樋から斐伊川の水を取入れ、松江藩の荒木あらき川方役所(現大社町)まで一一・四キロを流れる疎水である。延宝二年(一六七四)古志こし村の馬庭佐平太と大梶七兵衛を開発棟梁人として荒木浜の開発が始まった。高瀬川普請のおもな動機は荒木浜への送水路であり、大梶七兵衛の設計により松江藩が直営事業を起こし、貞享四年(一六八七)に完成した。当時流域一三ヵ村と下流新田三ヵ村の用水となった(出雲市民文庫「大梶七兵衛と高瀬川」)

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改訂新版 世界大百科事典 「高瀬川」の意味・わかりやすい解説

高瀬川 (たかせがわ)

近世初期,角倉(すみのくら)了以によって開削された運河で,京都市中と大坂,伏見との物資輸送に利用された。1611年(慶長16)起工,14年完成。川幅約7m,全長約10km。開削費用は7万5000両。川名は,輸送に高瀬舟が用いられたことによるといわれ,角倉川ともよばれた。

 二条大橋西畔から鴨川の水をひき入れ,鴨川西岸に沿って中京区,下京区を南下,南区東九条でいったん鴨川に合流し,東山区福稲南西部から鴨川東岸を南流,伏見の市街地西部を流れて宇治川に流入する。二条大橋南西には,高瀬川最上流の物資積卸場である〈一之船入〉(史)があり,高瀬川の支配権と諸物資の輸送権を独占した角倉家はここに屋敷を置き,高瀬舟の運航を管理した。この舟運によって大坂・伏見方面の物資が京の町に運ばれ,川筋の船入には問屋が多数置かれ,商品を扱う商人や職人が同業者町を形成,材木町,樵木(こりき)町,石屋町,塩屋町など職種や商品を反映した町名などが付けられた。1710年(宝永7)ころ,伏見~二条間を就航した船は188艘,上り船1艘につき荷物15石積みで船賃14匁8分,下り船は7石5斗積みで7匁であった(京都御役所向大概覚書)。荷量・運賃においてはるかに不利な立場に置かれた伏見や下鳥羽の陸運業者は痛手を受け,角倉家と交渉して船数を制限したこともあったが,結局,舟運の隆盛に対抗できなかった。

 明治期以降も高瀬川舟運は京都市中の諸物資移出入に利用されたが,鉄道の開通などによってしだいにその機能を失い,1920年廃止された。
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高瀬川 (たかせがわ)

長野県の北部を流れる犀(さい)川の支流。槍ヶ岳に源を発して北流し,三俣蓮華岳,野口五郎岳など北アルプスの奥山と大天井(おてんしよう)岳,燕(つばくろ)岳などの前山の間に深い峡谷をつくる。不動滝から流路を東北東に変え,12kmほど流れて安曇野(あづみの)に出る。ここから南流して,安曇野市の旧明科(あかしな)町押野付近で犀川に合流する。延長約47km。渓谷のこう配が急であるためしばしば水害が発生し,1969年8月11日の水害では,上流の葛(くず)温泉がほぼ完全に流失してしまった。新緑や紅葉のころがとくに美しく,最上流部にある湯俣温泉は,〈アルプス裏銀座〉の登山基地にもなっている。また中流部には東京電力が建設した高瀬ダム,七倉ダムがある。高瀬川が安曇野へ出た地点に,〈エコノミスト村〉や大町温泉郷(葛温泉からの引湯)が開発された。この温泉郷は黒部・立山観光の基地にもなっている。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高瀬川」の意味・わかりやすい解説

高瀬川(京都市)
たかせがわ

京都市の市街地東部を北から南に流れる小運河。中京(なかぎょう)区二条で鴨(かも)川から分水し、鴨川の西を並行して南下し、南区東九条で鴨川に合流する。さらに東山区福稲(ふくいね)で分水、東高瀬川となって南流し宇治川に合流する。延長約10キロメートル。幅約7.2メートル。1611年(慶長16)角倉了以(すみのくらりょうい)によって開削が始められ、1614年に竣工(しゅんこう)した。総工費7万5000両。水深が浅いため、舟運は底の浅い高瀬舟を用いたので高瀬川とよばれるようになった。森鴎外(おうがい)の短編小説『高瀬舟』で知られる。淀(よど)川の水運によって伏見(ふしみ)まで運ばれた米、木材、薪炭(しんたん)などは高瀬川を引き船によって京都まで送られた。高瀬川沿いに材木商が集まり、いまも木屋町(きやまち)の名が残る。二条大橋付近の船だまりは「高瀬川一之船入(たかせがわいちのふないり)」として国史跡に指定されている。

織田武雄



高瀬川(長野県)
たかせがわ

長野県西部、北アルプスの槍ヶ岳(やりがたけ)北側に発して北流し、やがて東方に向きを変え、大町市からは南流し、松本盆地の安曇野(あづみの)市明科(あかしな)で犀川(さいがわ)に合流する。延長約45キロメートル。上流部は槍ヶ岳と東部の常念(じょうねん)山脈の間を高瀬渓谷となって流れる。湯俣(ゆまた)川との合流点付近では温泉が湧出(ゆうしゅつ)し、また国の天然記念物「高瀬渓谷の噴湯丘と球状石灰石」がみられる。近年渓谷に東京電力の高瀬ダム、七倉ダム(ななくらだむ)の二つのロックフィルダムがつくられ景観は一変した。松本盆地から下流は大扇状地をなし、梓(あずさ)川との合流点近くは豊富な湧水を利用したワサビ栽培が特色である。

[小林寛義]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高瀬川」の意味・わかりやすい解説

高瀬川
たかせがわ

長野県北西部を流れる川。犀川の支流。全長 56km。槍ヶ岳の北方に発し,飛騨山脈と前山の間を深い峡谷をなして北流する。東に向きを変え,大町市からは松本盆地を南流して安曇野市で犀川に注ぐ。上流部に高瀬ダム,七倉ダムなどがあり,1979年から発電を開始。上流,中流は渓谷美で知られ,葛温泉,湯俣温泉がある。土砂の運搬が多く,松本盆地では広い扇状地を形成している。

高瀬川
たかせがわ

京都市中京区樋之口で鴨川の水を分岐し,伏見区京橋で宇治川に注ぐ約 10kmの運河。慶長 19 (1614) 年角倉了以が開削。幅約 5.5m。江戸時代は大坂-京都間の物資輸送に利用され,名称は高瀬舟を用いたことに由来する。運河の分岐点付近にある,当時の荷物積卸し場の一之船入は史跡に指定されている。

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百科事典マイペディア 「高瀬川」の意味・わかりやすい解説

高瀬川【たかせがわ】

京都市街を流れる小河川。中京区樋之口町で賀茂川から分かれ,伏見区南部で宇治川に合する。1614年角倉(すみのくら)了以が開掘した運河で,幅5.5mだが水深は深い。京都〜伏見間の高瀬舟の舟運に利用されたので川の名がつけられたという。分岐点付近に当時の積卸場の一之船入(史跡)が残る。
→関連項目賀茂川

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旺文社日本史事典 三訂版 「高瀬川」の解説

高瀬川
たかせがわ

17世紀初め角倉了以が京都〜伏見間に開いた水路
方広寺再建のための物資輸送用として開発,さらに,1611年賀茂川の水を引いて京都二条から伏見を経て淀川に通じる運河として開通。「高瀬舟」と呼ぶ川舟が薪炭などの物資を運送した。森鷗外の小説『高瀬舟』でも知られている。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「高瀬川」の解説

高瀬川
たかせがわ

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
文政2.5(京・北側芝居)

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事典・日本の観光資源 「高瀬川」の解説

高瀬川

(島根県出雲市)
疏水百選」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の高瀬川の言及

【小川原湖】より

…三沢市,上北郡上北町,東北町,六ヶ所村に面しており,周辺の姉沼,内沼などが連絡し,北方にも田面木沼,市柳沼,鷹架(たかほこ)沼,尾駮(おぶち)沼などが存在して湖沼地帯を形成している。湖の南西部では七戸川,土場川,砂土路川などが流入し,北東隅から高瀬川が太平洋に流出している。小川原湖は周辺の台地より多少陥没し,出口が海岸砂丘の発達で閉鎖されて湖となった。…

【斐伊川】より

…それでも1635年(寛永12)から1848年(嘉永1)までの間に30回をこす洪水の記録があり,明治に入ってからも3度の水害に見舞われ,とくに1893年には松江市街地が1週間水浸しになるほどであった。一方,1687年(貞享4)には豪農大梶七兵衛が斐伊川の水を引いて用水の高瀬川を開き,出雲平野を灌漑している。 1922年内務省直轄事業として,下流部の数本の分流を一本化して堤防を強化し,大橋川の浚渫(しゆんせつ)で排水をよくする斐伊川改修事業が始まり,1954年には斐伊川・宍道湖・中海総合開発計画が立案された。…

【山国川】より

…下流は大分・福岡県境をなす。《日本書紀》景行天皇条にみえる御木(みけ)川は山国川であるとされ,近世には高瀬川と呼ばれていた。中・上流域一帯は耶馬渓(やばけい)層が厚く堆積した耶馬渓溶岩台地で,これを山国川の本・支流が深く浸食し,名勝耶馬渓をつくった。…

【賀茂川∥鴨川】より

…鴨河原はみそぎ祓(はらい)の神事や合戦場,処刑場として著名であるが,中世末から近世にかけては庶民の集まる広場となり,芝居・見世物小屋が並ぶ歓楽街が四条河原,五条河原に形成された。この河川は古代から木材,薪炭などの輸送に利用されていたが,平時は水量が少ないため慶長年間(1596‐1615)西岸の二条通り南の一之船入以南に高瀬川が掘削され,明治前期まで水運に利用された。河水は友禅染の水洗に最近まで利用されてきたため,高野川東岸の高野付近には染色工場が立地する。…

※「高瀬川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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