有村次左衛門(読み)ありむらじざえもん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

有村次左衛門
ありむらじざえもん

[生]天保9(1838)
[没]万延1(1860).3.3. 江戸
江戸時代末期の薩摩藩士。安政5 (1858) 年脱藩して江戸に上り,同志とともに桜田門外に大老井伊直弼を襲った。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

有村次左衛門 ありむら-じざえもん

1839*-1860 幕末の武士。
天保(てんぽう)9年12月28日生まれ。有村連寿尼の子。海江田(かえだ)信義の弟。薩摩(さつま)鹿児島藩士。兄雄助と脱藩し江戸で尊攘(そんじょう)運動に参加。安政7年3月3日水戸藩士らと大老井伊直弼(なおすけ)を桜田門外で襲撃,この際重傷をおい,同日自刃(じじん)した。23歳。名は兼清。

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朝日日本歴史人物事典の解説

有村次左衛門

没年:万延1.3.3(1860.3.24)
生年:天保9.12.28(1839.2.11)
幕末の薩摩(鹿児島)藩士,尊攘派の志士。仁左衛門の3子,長兄は海江田信義,次兄は雄助。安政5(1858)年江戸藩邸の中小姓役,安政の大獄終了直後の万延1(1860)年1月,兄雄助と共に水戸浪士と井伊直弼の暗殺を計画。同3月3日桜田門外にこれを決行,直弼の首級を挙げて去るときに井伊家の家士に切られ負傷,自決。「岩が根もくだけざらめや武士の 国の為にと思ひきる太刀」が辞世の句。襲撃成功の報を得て,雄助は水戸浪士金子孫二郎らと,さらにことを進めるため江戸を脱して京に赴く途次,四日市で捕縛,鹿児島に護送され,藩命によって自刃した。

(井上勲)

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世界大百科事典 第2版の解説

ありむらじざえもん【有村次左衛門】

1838‐60(天保9‐万延1)
江戸後期の薩摩藩士。諱(いみな)は兼清。海江田(かえだ)信義の弟。水戸藩士高橋多一郎らと安政の大獄に反発して尊王攘夷の義兵を挙げようと謀り,その手初めに1860年3月3日大老井伊直弼を桜田門外に要撃してその首をあげたが,重傷のため自刃。兄雄助は襲撃の成功を見届けて高橋とともに京都に走り兵を挙げようとしたが,捕らわれて国元で自刃を命ぜられた。【原口 虎雄】

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367日誕生日大事典の解説

有村次左衛門 (ありむらじざえもん)

生年月日:1838年12月28日
江戸時代末期の志士;薩摩藩士
1860年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典内の有村次左衛門の言及

【海江田信義】より

…幕末・明治の政治家。薩摩藩士有村仁左衛門の長男で,井伊直弼暗殺計画に加わった雄助・次左衛門兄弟の兄。はじめ茶道出仕,俊斎と称する。弟の死後その義理で日下部家を継ぎ,その旧姓海江田を名のった。通称は武次。早くから西郷隆盛らの運動に関係,1868年(明治1)の戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀として江戸へ進駐したが,やがて主流からはずれ,元老院議官,枢密顧問官に終わった。【松浦 玲】…

※「有村次左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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